米長邦雄さんといえばタイトル獲得数19期は歴代6位。永世棋聖の称号を保持している将棋界の大物です。
また、その強烈な個性でも知られ、数々の伝説や名言を残しております。
兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった
2012年12月に亡くなられるまで、その人生を通して色々な事に挑戦し続け、様々なものと戦い続けた人でした。
- 将棋
- 既存の制度や既成概念
- 株(大失敗)
- コンピュータ
- 癌
調べれば調べるほど魅力的な話が出てきて予定よりかなり長くなってしまいましたが、読み終わったらきっと米長さんのことを好きになってもらえると思います。
そして様々な失敗をしながらも貫き通したその姿勢は、私たちの生き方への重要な指針を示してくれています。
プロ棋士の道へ
米長さんは、1943年山梨県の増穂町(現富士川町)で生まれ、4人兄弟の末っ子でした。
末っ子の邦雄が将棋を覚えたのは小学校に上がるころ、やり始めるとめきめき実力をつけ、しばらくすると三男を負かし、そのうち次男にも勝利するようになります。
小学校3年になると大人達も負かすようになり大会で優勝すると、噂を聞きつけた佐瀬勇次(後の師匠)が 邦雄の家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めました。
米長邦雄、小学校6年の頃でした。佐瀬が両親に言った言葉は、
八段とは、プロ棋士のトップ10人クラスになることを指しており、佐瀬が米長少年をかなり高く評価していたことが伺えます。
このスカウトにより、米長はプロの道に進むことになりました。
一方、3人の兄は進学し、東京大学に進みました。そのうちの長兄である泰は、将棋の全日本学生名人戦で優勝の実力者であり、秋田工業高等専門学校教授です。
そんな立派な兄がいる米長さんが言ったとされる言葉が、
「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
実はこの言葉、あとから米長本人の言葉ではないことが判明しますが、米長さんなら言いかねないと皆信じておりました。
米長邦雄と師匠
米長さんは中学生の時に佐瀬勇次名誉九段にスカウトされ、佐瀬の内弟子となりました。
住込みで将棋に打ち込む日々の中でそこでも色々な逸話を残しています。
- いたずら好きで母親代わりの師匠夫人をよく困らせた。
中学校では「スカートめくり」の常習で、そのたびに夫人は担任から呼び出された。
- 米長少年は師匠に対しても反発、将棋の勉強法についてあれこれ言い付けると、
「師匠と同じ勉強法じゃ、あなたと同じ七段(当時の師匠の段位)止まりで終わってしまう」といい放ち、師匠から殴られた。 - 鉄拳と共に「破門だ!」と宣告する師匠に向かって「私のような男を破門すれば、恥をかくのは先生ですよ」と言い放った。
それでも師匠は、そんな米長を暖かく見守り、米長も心底では師匠を尊敬していました。
米長の才能を見込んだ升田幸三が「弟子に譲れ」と本気で頼んでも、頑に拒んだそうです。
また、米長は「あなたと同じ七段止まりで終わってしまう」と言ってげんこつを食らった逸話について「しばらくして『考えたら、お前の言うとおりだ』言われた」と明かしており「破門だ、出ていけ」と弟子に言わなかったのは名伯楽だとして深く敬っていた。
佐瀬は現役生活44年間、対局不休・無遅刻の記録が示すように勤勉で誠実な人柄でありました。
人望があり、沢山の弟子がいる将棋界きっての大きな一門。
米長の他に高橋道雄が王位、三浦弘行が棋聖、藤井猛が竜王、丸山忠久が名人などタイトル獲得者が多数います。
そんな師匠の長年の悲願は、高弟・米長の名人獲得。
7回の挑戦の末、中原誠を破って名人をついに獲得したときには喜びのあまり
これで、いつ死んでもいい
と語ったそうです。
その翌年、佐瀬さんは75歳で死去しました。
米長哲学
米長邦雄は遅咲きの棋士です。プロ入りしたのは20歳の手前、デビュー当初は負けが先行しており、順位戦でA級に昇るまで8年かかっています。
1969年度、B級1組1期目の順位戦最終局面を迎えていました。12回戦まで終了した残り1局(全13回)の時点で、
内藤國雄 | 11勝1敗 |
大野源一九段 | 9勝3敗 |
中原誠 | 9勝3敗 |
米長邦雄 | 7勝5敗 |
内藤がぶっちぎりのトップ。
もう1人の昇級枠を58歳の大野九段と22歳の中原誠が争っていました。年齢的に大野九段はA級復帰のラストチャンス、相当な気合いを入れて取り組んでいました。
そして、大野九段の最終局の相手は米長でした。米長自身は昇級にも降級にも絡んでいない消化試合状態でした。勝利すれば当時のA級昇級の最年長記録を更新、往年の大ベテランの復活劇となります。世間も注目しており、心情的には大野に勝たせたくなってしまう場面です。
米長の先輩であり親友の芹沢が「上手にまけてやれ」と米長に耳打ちしました。
ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにしました。外は3月だというのに雪が舞っていました。
気合いの入った2人の対局は大野優勢で進みます、しかし米長は「泥沼流」と称された得意の粘りに粘る戦法で簡単にはあきらめません。未明から降り出した雪は大雪となり、対局は深夜に及びます。
大野は詰み寸前までいきますが米長の粘りの前に痛恨のミス、ついに力尽きました。
米長の逆転勝ちでした。
自分にとっては消化試合だが、相手にとって重要な対局であれば相手を全力で負かす
米長さんはこの名言があらわすような理念を持ち、将棋界では「米長哲学」と呼ばれ、広く知られています。
このような対局を「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現しています。
米長自身はこの翌年にA級昇級を果たします、結果的に負ければ翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利に働きました。
正に運を引き寄せたのです。
初タイトル、因縁の大山康晴
1970年 王位戦で大山康晴にタイトル初挑戦。1勝4敗で破れます。
敗戦のショックを引きずったためか、その後チャンスに恵まれず、3年後の1973年 有吉道夫との 棋聖戦でようやく初のタイトルを獲得をしました
3勝1敗で迎えた最終局の終盤、劣勢の中で大逆転勝利でした。 米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋(逆転の1手)に気づいた時30センチくらい飛び上がった」
一方、初タイトル戦で負けた大山康晴には、その後のタイトル戦でも負け続けます。
2回目 | 1974年 | 棋聖 | 3敗 | 負け | ● |
3回目 | 1976年 | 棋聖 | 2勝3敗 | 負け | ● |
4回目 | 1980年 | 王将 | 1勝4敗 | 負け | ● |
どうやっても勝てず、米長は臍を噛みます。また、2人の確執は噂されており、数々の逸話があります。
- 米長は大山とあらゆる場面で張り合った。同じ飛行機に乗れば、着陸してシートベルト着用サインが消えた時に、どちらが先に出口までの列に並ぶかを競った。
- 旅館に泊まれば、自分の方が忙しいことを示すために、どちらが早く宿を出るかで勝負をしていた。
- 米長が棋王を通算5期獲得した際、棋王獲得経験がない連盟会長の大山は、自分が持っていない永世棋王をもともと好きではない米長に名乗られるのが嫌で「永世棋王は5連覇しないとダメ」と主張。米長は5連覇に失敗し、初代永世棋王になれなかった。
積年の思いもあり米長としてはどうしても一矢報いたい!
そして最初の対戦から12年目 の1982年王将戦 、5度目の対戦のチャンスが訪れます。
大事な初戦を落としてします。嫌な予感が頭をよぎります……
しかし、その後に4連勝!
ついに雪辱します。さらにその後の棋聖も3連勝で勝利し、溜飲を下げます。
以後、タイトル戦の常連となっていきます。特に1985年には、41歳で棋聖、十段、王将、棋王の四冠王となり、棋界の第一人者となりました。
株の信用取引で失敗
米長が株式投資に熱中した時期がありました。江戸時代の相場の神様本間宗久の秘録を読み、相場の奥義を極めたと思ったことがきっかけだそうです。
関連記事 相場の神様、本間宗久
米長さんは、「米長流株に勝つ極意」という本まで書いています。電話で株を購入していた時代のお話で今役に立つかは不明ですが、自信がなければ本まで書けません。
絶対的な自信とどんどん儲かる事から現物取引だけでは物足りなくなり、信用取引に手を出します。さらに、家と土地を担保に金を借りて、大きな勝負に出ます。
しかし、相場は逆に動き大失敗、ついに追証が発生してしまいます。毎日損失が大きくなり、このままでは担保に入れた家を失ってしまうというところまで来てしまいます。
そこで、将棋の天才が打った手は...
米長さんは、負けを認め家を失う覚悟を決めます。
そして、「株を忘れて将棋に打ち込もう」切り替えました。将棋を続けていれば、家は失ってもまた買えると。
よくしたもので、欲が消えると相場は反転します。損失が減り、家を処分しなくても、手仕舞いすることができたのです。将棋の天才も株までは思い通りとはいかなかったようです。
米長邦雄と桐谷さんの因縁
将棋の世界に居た人で株と言えば、株主優待生活で有名な桐谷広人7段がいますね。株の資産は3億だとか、優待だけで生活できるとか。
桐谷さんは米長さんを尊敬し20年以上献身的につかえていたと言いますが、最終的には確執があったとされています。
桐谷さんは将棋では勝てませんでしたが、株の世界では大勝利ですね。
米長邦雄と加藤一二三
米長さんは、加藤一二三さんとの逸話も有名です。
加藤一二三さんのことは、バラエティで大活躍されているのでご存知の方も多いでしょう。
2016年に藤井聡太さんが更新するまで、史上最年少棋士の記録をもっていたことからも分かる通り、若いころから活躍されている天才棋士です。
名人を含むタイトルも8期保持されていました。
この方も数々の伝説を残しておりまして、
- 相手の対局者の背後に回って盤を見る(ヒフミンアイ)
- 対局中に咳払いをやたらに発する(うるさい)
- 対局場で人口の滝の音がうるさいと止めさせる。
- 対局中にミカンを1分間に3つ食べ、対局相手の羽生も対局そっちのけで注目
など数々の癖が強すぎる逸話を残しています。
しかし、癖の強さで負けていられない米長さんは奇策には奇策で対抗します。
- 対戦前のインタビューで「変人と奇人の戦いです。」と答える
- 米長は加藤との対局で、加藤が米長の背後に回ると、米長も立って同じように加藤の背後に回る。
- 加藤が咳払いするたびに、米長は片手を頬に当てて唾を避けるしぐさをした
- 十段戦で、米長とのミカン食い決戦、ミカン合戦に負けた米長が勝負にも負ける。
このような逸話から不仲も噂されましたが、後に「加藤さんは戦友です。奇行についてはよき理解者です」と語っています。
加藤一二三さんの伝説はここでは挙げきれないほどあり、別記事でたっぷりまとめています。
米長さんとは一味違った伝説をご確認ください。
最大のライバル中原誠、名人への挑戦
米長さんにとって4歳年下の中原誠は、大山以上の天敵でした。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てませんでした。
特に、名人戦は、6度挑戦して、6度敗れました。名人になれずにいるうちに1983年度、第41期名人戦で、21歳の谷川浩司新名人が誕生しました。
また、四冠王にはなりましたが1984年度末に王将・棋王を相次いで失冠します。四冠王でいたのは、ほんの一瞬でした。
残った十段・棋聖も2年後に失冠して、無冠に転落しています。すでに40代半ば、ほとんどの棋士は下降線を辿る年齢です。
米長の名人戦の戦績は次の通りです。
1976年 | 中原誠 | 3勝4敗 | ● | 負け |
1979年 | 中原誠 | 2勝4敗 | ● | 負け |
1980年 | 中原誠 | 1勝4敗 | ● | 負け |
1987年 | 中原誠 | 2勝4敗 | ● | 負け |
1989年 | 谷川浩司 | 0勝4敗 | ● | 負け |
1991年 | 中原誠 | 1勝4敗 | ● | 負け |
やればやるほど差は開き、もはや米長は名人にはなれないと言われました。
「なぜ将棋の神様は俺を名人にしないのか」
このままでは勝てない、米長はもともと
私は「将棋とは序盤の研究で勝敗が決まるほど簡単なものではない」と思っているので、序盤の分かれはあまり気にしていない
と言っており、序盤を軽視する傾向があり弱点であると言われていました。どうしても勝ちたかった米長は苦手な序盤強化に取組むことにします。
そしてそのために誰も思いつかなかった一手を打ちます。
なんと若手の研究会に教えを乞い、仲間に入れてもらったのです。
かつての栄光を自ら捨て、自分の子どもと同年代の若者に頭を下げてまで、現代的な将棋へと自らを生まれ変わらせることを決意したのです。
弱点の序盤戦を強化したことにより、米長は調子を上げていきます。1993年、米長はA級のリーグ戦を8勝1敗で優勝、その勢いのまま、7回目の名人戦に挑みます。
49歳、年齢的にも最後のチャンス。そして相手は、こればで5度苦杯をなめている因縁の「中原誠名人」です。その結果は.....
負けなしの4連勝!
若手研究会で会得した新戦法「森下システム」などを駆使し、 これまでの鬱憤を晴らすように中原名人に完勝します。
最年長記録の新名人・米長邦雄の誕生の瞬間でした。
羽生善治との対戦、現役引退
新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数の参加があった。この席で米長が
と発言。その言葉のとおりに、翌年、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生善治によって名人位を奪われ、以降、米長はタイトル戦の舞台から遠ざかることとなります。
1998年、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。
2003年4月、米長は記者会見を開き、「勝ち残った棋戦だけを指し続け、すべて負けたときに引退届を提出する」という前代未聞の表明を行った。
やがて黒星が重なり、冬を迎えるころには第53期王将戦挑戦者決定リーグの対局を残すのみとなった。予選で2人のA級棋士を破り本戦リーグ入りをする。しかし、本戦リーグは3連敗、その時点で挑戦の可能性が消滅しリーグ最終戦での引退が確定してしまった。
その直後の4局目の対局相手は佐藤康光棋聖(当時)であった。佐藤は対局当日、和服(羽織袴)を着用して下座に着いた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。
棋士が和服を着て対局に臨むことには特別な覚悟や意味があるとされる。このときは「引退する超一流の大先輩へ敬意を表する意味」で和服を着た。
少年時代に米長の著書を読むことで将棋の魅力にとりつかれ棋士を志した佐藤にとって、米長はスーパースターであり、憧れの存在だった。
それを見たスーツ姿の米長は急遽和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。
残る2局は森内俊之竜王(当時)、郷田真隆との対局であったが、彼らも和服を着用。森内竜王も下座に着いた。米長は事前に雰囲気を察知し、この2局は自らも朝から和服を着て対局に臨んだ。
また、現役最終局となった郷田戦は、同日に対局する羽生善治と森内竜王の計らいによって、特別対局室で対局を行うこととなった。
最後の対局は相居飛車の力戦形。米長は最後まで粘りの将棋を見せ、両者ともに一分将棋になるまで時間を使いきった熱戦だった。
米長は棋士人生の最後まで全力で指しきりました。
65歳の定年まで5年余を残して現役棋士を引退。通算成績は1103勝800敗(1持将棋)。
日本将棋連盟会長、米長邦雄の伝説
引退した年の5月、日本将棋連盟の専務理事に就任し、秋には将棋界で7人目となる紫綬褒章を受章しています。
2年後の2005年には将棋連盟の会長に就任、2012年まで7年間勤め、保守的だった将棋界へ新しいものをどんどん取り込み改革していった。
- 名人戦の朝日新聞と毎日新聞による共催実現
- 瀬川晶司のプロ入り試験実現
- 日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応
個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残しています。
また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行った。
将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信、新聞の連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続している。
そんな米長の伝説の一部をご紹介します。
- 42歳のときには、「男四十、鳥取砂丘に立つ」と題して週刊誌に全裸写真を掲載
- 46歳。王将戦フルセットの激闘を制しタイトルホルダー復帰。打ち上げで歓喜の裸踊り
- ニッポン放送の携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自分の色恋沙汰の赤裸々な告白、読者からの人生相談
- 日本将棋連盟のホームページでは笑顔でWピースの写真を役員紹介の写真に採用
これ加工した画像じゃないですからね...
米長邦雄 対 ボンクラーズ 、最後の大一番
米長は連載を持つなど『週刊現代』にたびたび寄稿していた、あるとき誌上で、
「コンピュータと公式対局を行うのであれば、羽生善治なら対局料として7億円ほどを頂かねばならないが、この米長であれば1000万円で請け負う」
と言った内容の記事を掲載しようとした、それが発表される数日前に中央公論社前社長浅海保とドワンゴ会長川上量生の耳に留まり、対戦が実現するきっかけとなった。
電王戦
この対戦は「電王戦」と称して、2011年10月6日に発表された。元とはいえ最強棋士が、コンピュータ将棋ソフトと本気で対戦すると言うことで話題になった。
一方、コンピューター代表として登場するボンクラーズは、昨年5月に行われた「世界コンピュータ将棋選手権」で優勝した将棋ソフトで、富士通研究所の伊藤英紀氏が開発したものである
対戦は、2012年1月14日、死去が2012年12月18日であるから、正に勝負師の最後の大一番となった。
電王戦のPVがこちら、格闘技戦のようなノリで作られており、盛り上げてくれます。
米長は自宅にパソコンを導入、ボンクラーズをインストールし、対策を研究する。他の棋士を招くなどし対戦を重ねるがなかなか勝てず、正攻法では勝てないことを悟った。元トップ棋士の人間代表と言うことで負けるわけにはいかない。米長は考えに考えた末に一つの結論に達する。
これは定石に無い手で、膨大な序盤の定跡データもつボンクラーズをかく乱し、コンピュータの苦手な序盤に大優勢を築きそのまま逃げ切る戦法である。
米長は大好きな酒を断ち、この筋を研究し延べ300時間の準備の上で並々ならぬ意欲で対局に臨んだ。対戦はネット中継され、約100万人が観戦しました。
実戦でも米長は初手6二玉、序盤優勢に進めます。しかし中盤に後に何度も繰り返し悔むことになる痛恨の見落としがありコンピュータ優勢となってしまう。得意の「泥沼流」で粘りたいところだが、「ミスをしない」コンピュータの前についに敗れてしまいます。
敗れはしたが、地位も名誉もある棋士がリスクをおかし果敢に人間代表としてコンピュータに挑戦した姿にネットでは高評価のコメントが大勢をして占めていた。
われ敗れたり
また、凄い事に米長さんはこの時のことをすぐさま書籍にまとめ『われ敗れたり』と題して発表している。
元名人としての対局までの経緯や心構え、敗戦後の眠れない日々が続いたことなどについて赤裸々に語った一冊で見応え充分。
最終章では羽生二冠などの棋士側とコンピューター製作者側からの視点で対局が振り返られており、見比べると面白いです。
あとがきの「この本は、私の将棋界への遺言書になるかもしれません。」という一文には胸に迫るものがありました。
ただ、一番面白いのは名人の奥様が試合前に名人に「勝てるか?」と聞かれて
「全盛期のあなたと今のあなたには、決定的な違いがあるんです。あなたはいま、若い愛人がいないはずです。それでは勝負に勝てません!」
という名言。いやはや奥様も凄い。
また、米長はふだんからTwitterを利用しており人気だった、今回の敗戦後、
昨日はコンピュータにこっぴどく負けました。余りにもひどい。谷川専務に『責任を取って引退する』と言いました。
引退した棋士は、引退できません。
そうか既に引退してたのか…
とツイートしている。
その後の電王戦
米長さんが立ち上げた電王戦は新聞やテレビ局が多数取材に入り、将棋に興味のない層も視聴するほど大きな話題となり将棋の普及に貢献しました。多くの人たちがプロ棋士とコンピュータ将棋との真剣勝負に一喜一憂した。
電王戦は翌年以降も続き、現役のプロ棋士5人対コンピュータソフト5種で争われた。
2013年 | 第2回将棋電王戦 | 1勝3敗1分 |
2014年 | 第3回将棋電王戦 | 1勝4敗 |
2015年 | 電王戦FINAL | 3勝2敗 |
2016年 | 第1期電王戦 | 2敗 |
勝率は悪くなるばかり、人間の劣勢は明らかだった。そして、2017年、ついに現役タイトルホルダー佐藤天彦名人がponanzaと対戦しました。
結果は、佐藤天彦名人の2敗。こうして、電王戦の歴史は幕を下ろしました。
終了の理由についてドワンゴの川上量生会長は「人間とコンピュータが同じルールで真剣勝負をするという歴史的役割は終わった」と話しています。
コンピュータ対人間
すみません。少し脱線しますがもう少し続きます。コンピュータが急速に強くなった理由は2つあります。
- 単純なコンピュータの性能アップ
- AI技術の1つでもある機械学習が登場してきたことにより、コンピュータが自ら学習するようになり、コンピュータ同士が自動的に何百・何千万回も対戦し強化できるようになった
ponanza開発者の山本一成は、「コンピュータは、指数関数的に成長しており、10年前は身長1m、5年前2m、佐藤名人と戦った時は身長4mくらいで今は8mくらいになろうとしている」と語っており、コンピューターの進歩は人間の手の届かないところまで進んでいるようです。
競うのではなくコンピュータの得意な分野は任せ、役割分担をすることを模索する段階となっています。自動車と人間が競争しないように、道具としてうまく利用すればいいのです。
実際、若手棋士の間ではコンピュータを利用しての勉強法は当たり前のものとなっています。
電王戦を戦った時、米長は「まさか負けると思っていなかった」と語っており、思惑通りではなかったようです。
しかし、人間対コンピュータというパンドラの箱を開けた米長さんが歴史に名を残したのは間違いないようです。
癌との戦い
2008年、自発的に受けている健康診断で前立腺癌と診断されます。そして、治療法を考え抜いた末、全手出ではなく患部を焼き切る手術をしています。
そんな時にも米長は一手を打ちます。自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載したのです。これは同じ境遇にいる人などに患者視点の情報と勇気を与えました。
一部抜粋します。
これから述べることは、私が前立腺癌とどう向き合ったかを正直に書いてゆくものです。
癌は恐い。しかし、なってしまったものは仕方がありません。そんな人のための手記です。(中略)
「あなたは癌です」と医師に宣告されたらどうなりますかね。目の前が真っ暗になる。心臓が止まりそうになる。平然としていられる人もいるのでしょう。その次に頭をよぎるものはなにか。愛妻のことでしょうか。幼い子供のことでしょうか。それとも奥さんに内緒の人の行く末か。
お金はどうなるんだろう。保険はいくら入っていたっけ。入院費用はいくらだろうか。そんなとき「あなた。今のうちに遺言書を書いておいてね」と奥様に言われて離婚したという実例もあります。
肉体的にはどうなんでしょう。放っておくとやがて激痛で眠れない日々が来るのでしょうか。手術は痛いのかなぁ。前立腺だったらどうなんでしょう。癌は完治しても男としては駄目になってしまうんでしょうか。
このような局面の時、どう対処するべきか。これを書き綴ってゆこうという新連載です。
自己の心、金、医療の現実、家族、仕事。何を感じ、何を考え、どう判断し、いかに対応するか。果たしてそれらは最善だったのか。そもそもベストというものはあり得ません。ベターは何かですね。
しかしベストはあるのです。
笑い。これだけは絶対です。
(2008.12.30)
自分が同じ立場であったらと思うとこんなに冷静に書けるものかと考えてしまいますね。
本当に自信の不幸さえも新しい試みに変えてしまうその姿勢には感服します。
ただその手記は真面目なものだけでなく次のようなユーモア(下ネタ)あふれる表現で綴られています。
高線量率組織内照射(HDR)という癌を焼き切る手術のあと
治療はうまくいきました。成功です
成功した? それでは先生、性交も出来るのですね
ハイ。しかし治療直後にそんな質問をされる患者さんも珍しいです
お尻の穴から管を入れる手術と医者に言われて
尻の穴が小さいと管が通り難いので、別の方法にします。どうなんでしょうか
あのー。ケツの穴の小さな男といわれることがあるんですけど
それは全く関係ありません
また、これら患者側の視点での日記にお医者様側の視点/意見を加えたものを本にして出版されています。癌になった患者とお医者様のリアルな情報が記載されている良書です。
2008年に手術し、うまくいったかに見えましたが、2011年10月ラジオインタヴューで癌が再発したことを明らかにしました。
自他共に認める性豪として知られるだけに、前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。とも言われております。
そして闘病の末、2012年12月18日お亡くなりになられました。
最後のコンピュータとの対決も癌再発後のことと知ると、米長さんの偉大さにあらためて驚かされます。
「われ敗れたり」では、「もし許されるならもう一度」とコンピュータとの再戦を願っていましたが、その願いは残念ながら叶いませんでした。
米長邦雄の名言
こうしてまとめてみると、本当にエネルギッシュで魅力的な方ですね。
この記事作成を通してすっかりファンになっていました。
常に変革を求める姿勢は、なるべく変わろうとしない/楽をしようとしてしまう自分を奮い立たせてくれます。
最後にまた米長さんの名言を上げさせていただきます。
正にこの言葉通りに生き抜いたお方でした。
新築の家を建てたとしても、ピカピカの家に住む喜びに浸れる期間には限りがあります。30年も経てばもうあちこちガタがきているし水漏れもします。知識や経験とはこのようなもので、身につけたときは得意に思っても、いつかはカビが生えて使い物にならなくなります。古くなった家屋を目の前にして、すべきことはたったひとつ、改築するしかありません。必要なのは、新たな改築プラン。つまり若さなのです。
時代は移り変わります。PCを駆使する新人と、鉛筆なめなめ原稿書いてきた古参の記者ではスピード感がまるで違います。そこは新しいことを取り入れて変化しなくてはなりません。
私が50歳を間近にして、名人位を獲得できたのは、40歳というすでに若くない段階から変化を試みたことへの神様からのご褒美だったと思っています。人間は変化できなくなったらもう終わりです。私自身、変化できなくなったら引退しようと心に決めており、また実際にそうしてきました。
行動を起こすなら早いほうがいいです。
さあ、今すぐ全裸で鳥取砂丘を駆け上がりましょう!
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おまけ、おすすめの本
ここまで見てくださった人なら必ず楽しめる本を紹介させて頂きます。
ひとつ目が「月下の棋士」、今回の話で出てきた米長さん、中原さん、大山さんなどがモデルとなったと思われるベテラン棋士に挑戦する主人公を「哭きの竜」で有名な能條純一さんが迫力満点に描いています。しぶいです。
二つ目が「ヒカルの碁」です。将棋でなく碁の話なのですが、昇段順位戦でのライバルとの死闘やタイトル戦でのピリピリした戦いなど、将棋に通ずる世界観があります。
個人的に一番面白い漫画と思ってます、超おすすめです。
読み始めたら止まらなくなります。原作はほったゆみさん、絵は「デスノート」で有名な小畑健さんです。
(おわり)