若尾逸平、明治に日本経済を牛耳った甲州財閥の始祖と言われている人です。
剛腕で困難を乗り越え、稼ぎまっくた大金持ちなのですが、エピソードを見ると何か憎めません。
- 最初の女房に浮気される(自分が家出)
- 行商中に追剥に襲われる
- 農民一揆で家が焼き打ちに合う
- 半分あの世に行きかけながら、正気にかえるとすぐに株
顔写真を見るとなんか加藤一二三九段「ひふみん」に見えてきてしまいます。
食事は、簡単に食べられるうな重あたりがよろしいのではないですか
そんなキャラが立っている伝説の相場師「若尾逸平」の物語、5分ほどお付き合いください。
がむしゃらに働く
若尾逸平は1820年(文政三年)12月、甲斐国巨摩郡在家塚村で村役人の二男として生まれた。
母は逸平が生まれた翌年に亡くなり、家は貧しかったそうです。
17歳(1837年)の時、若尾は武士になって身を立てようと、江戸に出て旗本の下僕となったが、商人に頭が上がらない武士の姿を見てイヤになり3カ月でやめてしまいました。
なんか違う。
そうか! これからは商人の時代なんだ!
22歳の時、庭先に実っていた桃の実を見て商売を思いつき、これを竹かごに積んで行商を始めました。
商売が軌道にのると、今度は利益の多い、真綿、繰綿をあつかいだします。
40キロ近い荷物を背負って、近隣だけでなく江戸まで約160キロの道のりを一睡もせず、険しい峠を越えて運びました。
そして帰りは甲州で売れる商品をもって、とんぼ返りで引き返すという体一つの行商を続けます。
峠で追い剥ぎに襲われた上に、売り物の「うちわ」を雨で濡らしてしまい商品にならなくなったこともあったそうです。
若尾の熱心な働きぶりを認められ、28歳で質屋の娘婿となります。
結婚した時、その質屋の経営は傾きかけていましたが、若尾の手腕で見事に立て直しました。
しかし妻・おたつと店の番頭である与作との不倫が発覚。
怒り狂うかと思ったがそうではない。
傷心の若尾は、台帳を義父に預け、(泣きながら?)店を出てしまいました。
生糸で大儲け
1854年、若尾は商売の拠点を甲府に移して、呉服や古着店を開いた。
ようやく心の傷がいえた3年後、40歳で細田家より妻をめとり再婚しました。
再スタートです。
1859年、日本の長い鎖国が終了し、横浜が開港されます。
このチャンスを彼は見事にとらえます、故郷甲州の生糸を横浜に運び、利益を得たのです。
ところが1年後、幕府は突然に自由であった横浜貿易を制限します。
生糸、呉服など五品目に限って江戸の問屋を通させるというのです。
生糸は大暴落し、若尾も大打撃をうけます。折角つかんだドル箱を失ってしまいました。
こんな措置が長く続くはずはない。
そう考えた若尾はすぐに制限が解除されることに賭けます。 大勝負です!
密かに値崩れした甲州の生糸を買い占めます。
しばらくして、若尾の読みどおり禁令が解除!
安く仕入れた生糸を一挙に売却し、この取引だけで十万両を儲けたとわれています。
その他にも若尾は商売で連戦連勝でした。
- 西南戦争時の乱発せいで、価値が暴落した紙幣を買いあさり、価値が戻ってから売り大儲け。
- 外国人が水晶を好むことを知り、山梨の特産物の水晶の使い残しのクズを安く買い占め、これを売り込んで巨万の富を得た。
それまで一介の行商人に過ぎなかった若尾は、一躍甲州を代表する富豪にのし上がりました。
笑いが止まりません。
しかし、目立ちすぎました。
1873年の農民一揆では若尾家は地方の養蚕農民に襲われて、焼き打ちにあう事件に見舞われてしまいます。
やりすぎたかな、とほほほ(泣)
株に参入
1878年(明治11年)6月、東京株式取引所が創立されます。
若尾は、生糸貿易でもうけたお金を株に投資することにします。
これからどの産業が伸びるのか、若尾は部下を使い情報をあつめます。
この選択にこれからの運命がかかっています。
よし! これからは「鉄道」と「あかり」で間違いない。
1882年に創業した新橋と日本橋間の鉄道馬車の買収を手始めに、
- 東京鉄道(都電の前身で、東京の交通機関の主役)
- 東京電灯会社(現在の東京電力の前身)
- 東京正金銀行
などを次々に手に入れます。
その見通しは大当たり、さらに巨万の富を得ました。
彼は、兜町の主役となります。
このころ、甲州から経済人を多数輩出し甲州財閥とよばれ、当時の日本経済を牛耳る存在となっていました。
- 雨宮啓次郎
- 小野金六
- 根津嘉一郎
- 佐竹作太郎
- 安藤保太郎
- 小池国三
若尾逸平は、雨宮啓次郎とともに甲州財閥の始祖と言われています。
この中で、特に小池国三は、山梨県出身で若尾逸平に師事しました。
小池はその恩を忘れず、若尾家の家紋を自らの会社のシンボルマークにしています。
家紋の「山に一」は社名にもなりました。
4大証券の一角、「山一證券」です。
晩年
その後、初代の甲府市長や貴族院議員としても活躍しました。
その仕事ぶりとは異なり、私生活では無頓着な性格でした。
着物を裏返しに着ていても平気。
年をとってからも無邪気なままで、改まった服装をすると
こんな立派なかっこうをすると、金持ちの隠居になったようでいやだな
と子供のように喜んでいました。
酒もタバコもたしなまず、囲碁が唯一の趣味でした。
2度、総理大臣を務めた大隈重信とは親友で良くいっしょに碁を打ったそうです。
90歳を過ぎたある時、碁を打っているとき「うーん」と唸って倒れてしまいました。
甥の若尾幾造や小池国三が駆けつけると、ムックっと起きあがり
最近の兜町の景気はどうだ?
と話しかけて周りをびっくりさせたそうです。
「半分あの世に行きかけながら、正気にかえるとすぐに株のことを聞くなど、若尾逸平でなくてはまずできる芸当ではない」
と語り継がれています。
1913年に死去。
葬儀には15000人が参列し、中央線は参列のための臨時列車が組まれ、甲府市内の旅館は宿泊客で空き部屋が全くなくなったといわれています。
参考
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
前坂俊之オフィシャルウェブサイト 日本経営巨人伝⑦・若尾逸平ーー明治期の甲州財閥の巨頭・若尾逸平
日本相場師列伝―栄光と挫折を分けた大勝負 (日経ビジネス人文庫)
(おしまい)