成金の語源は将棋の「歩」が相手の陣地に入り「金」に変わることから来ており、急に富豪になった人を指します。
元祖成金と言われているのが、鈴木久五郎(きゅうごろう)通称「鈴久」です。
あまり知られていませんが、明治のこれぞ相場師という人物。
特に鐘紡株の大仕手戦は一読の価値ありですよ。
成金として豪快に遊んだエピソードも有名です。
そうだ!ビールの池を作り、金貨を沈ませ、芸者に金貨拾いゲームをさせよう
5分ほどのボリュームですので是非お付き合いください
「歩」から「金」へ
鈴木久五郎は1877年(明治10年)に埼玉県粕壁在幸松村(現在の春日部市)に生まれました。
祖父は造酒屋で成功なした豪傑です。
その血をひいた久五郎は、兄と鈴木銀行を設立し東京の兜町近くに支店を持ちます。
そんな中、1904年に日露戦争が開戦します
当初の経済界は悲観的な意見がおおく、勝負するチャンスと考えていた鈴木でしたが、なかなか参加に踏み切れません。
決断できない久五郎は情報をあつめるためにロンドン行きの船に乗ります。
ところが香港で日本優勢のニュースを聞くと、日本にとんぼ返りして買い方に回りました。
相場師「鈴木久五郎」の誕生です。
鈴木の読み通り日本が戦争に勝ち、株価は上昇しましたが、そのまますんなりとはいきませんでした。
戦後の賠償金の支払いが実現しないことなどから国民が政府を糾弾して暴動となり、日比谷焼き打ち事件などが起きます。
株は暴落、さらに悪いことに鈴木銀行の久五郎が追証に苦しんでいると新聞に出てしまいます。
預金者が鈴木銀行に殺到、借金をしてなんとか乗切りますが、多額(40万円)の借金が残る結果に。
しかし久五郎は持ち株を売らずにじっと耐えます。
悪いことが重なり、暴漢に襲われ川に転落し入院、しかしその頃から株価はじりじりと回復。
潮目が変わるとみた久五郎は「丸吉」という仲買店を設立し兜町に進出、さらに大規模な買いに走ります。
ある時、兄の兵右衛門が東鉄(東京都電の前身)が1銭値上げするとの情報を仕入れます。
久五郎は全力買いの決心をし、買えるだけの東鉄株を (69円~70円) で買いあさります。
世間では、東鉄を買っているのは誰だと噂になりますが誰にもわかりません。
そして運賃値上げが発表されるときには87円になっていました。
久五郎の大勝利でした。
勢いに乗った久五郎はその後の東株(現:東京証券取引所)、日糖(現:大日本精糖株式会社)の商いも成功させ巨万の富を得ます。
歩から成金となったのです。
資産をつくり快進撃を続ける鈴木でしたが、そのやり方はあくまで投機で儲けているに過ぎませんでした。
産業や企業の育成などが全く見られないことから世間からはあまり尊敬されませんでした。
孫文との会合
久五郎には、正妻・お豊とさらに二号のお花までいました。
だが、大金を手にした久五郎はそれだけでは満足できません、花魁会に出入りして派手に遊びました。
日本中が、日露戦争後のバブル景気に酔いしれます。
久五郎が買ったと噂が立つだけで、その銘柄の株が上がるような状態です。
このころ、犬養毅の紹介で後に中国革命を成し遂げる孫文にあいます。
亡命中だった孫文は資金を集めていました。
革命も投機の一種だからあなたの気持ちがわかる
そう話す孫文に資金の融通を頼まれます。
ひょっとするとこの男なら革命を成功させるかもしれない
相場師の勘でそう思った 久五郎はすぐさま10万円の小切手を切りました。
最大の勝負、鐘紡(かねぼう)株の大仕手戦
鐘紡は、カネボウの前身です。
当初は経営不振でしたが、三井財閥の中心である中上川彦次郎と武藤山治による大改革で国内最大手の紡績会社にのし上がりました。
しかし、中上川が急死すると状況は一変、三井が鐘紡を売却することに。
武藤は悩んだ末、売却先に気心の知れた企業家、呉錦堂(ごきんどう)を選びました。
これが大間違い。
思わぬいい買い物だ
鐘紡の大株主となった呉錦堂は、鐘紡株を操作して利益をせしめます。
武藤がやめるように言っても聞きません。
取引所も呉の動きに戦々恐々たる有様でした。
その様子は、相場を支配する魔王のようでした。
一方、鐘紡株の不自然な値動きに久五郎が気付きます。
あるとき、呉錦堂が取引所を訪れて、売買をしているのを目にする。
取引所の70人ほどの仲買人は、呉の顔色を伺いながら売買していました。
呉が買えば上がるし、売れば下がることが決まっているからです。
たかが一人の相場師に手も足もでないのは気に食わない
鈴木は、手をまわし同盟軍を作り対抗することにしました。
- 野村徳七(野村財閥の創始者)
- 横浜で一番の高利貸しと言われた平沼専蔵
- 叔父中村清蔵
東京/大阪の両取引所より猛烈に買いを浴びせます
私に逆らうとは面白いやつだ、思い知らせてやる
そのことに気づいた呉は、華僑仲間や片野重久らを加え正面から対抗、全力で売り。
それぞれ追随する相場師も巻き込んで、取引所として前例のない大仕手戦となります。
たちまち鐘紡株は人気化してぐんぐん上昇。
奴らのようなヒヨッコに何ができる、投機とはどういうものか勉強させてやろう
呉は全くひるむ様子もなく売りを継続。
鈴木側も全く引かず、買って買って買いまくり。
すでに鐘紡株の保有数は過半数超えです。
信用期限が来て、買いを継続するためには現引き資金が必要となり、鈴木は金策にはしります。
鈴木は三井や有力銀行をあたりますが、どこも逃げ腰。
最後の頼みと吸血鬼と悪評のある安田善次郎に融資を頼みます。
「呉錦堂は昔から嫌いだった、いくらでも貸してやろう」
なんと融資を受けることに成功します。
さらに安田善次郎はこんな助言をします。
「ただし、戦後景気もそろそろ終わりだ、呉錦堂に勝ったら戦をやめること」
融資により買いを継続した買い方は結局、鐘紡株の8割を買い占めた。
臨時株主総会で重役一同を総辞職させ、勝利するのです。
この半年で鐘紡の株価は3倍になっていました。
勝ちに酔い、料亭での乱痴気騒ぎの途中、呉錦堂の破産の知らせが入ります。
ざまあみろ、ざまー見ろ
絶叫しながら、ありったけの皿や小鉢や徳利を中庭の池にめがけて叩き込みます。
魔王を倒した久五郎でしたが、その様子は悪魔のようでした。
戦後バブル崩壊
日露戦争後の好景気も終わりが来ようとしていました。
一部の投資家が手じまいを始める中、鈴木は買い続け、資産を増やし続けます。
安田善次郎の助言など忘れてしまっているようです。
そして1907年1月16日ついにその時が来てしまいます。
「あかぢ銀行」が持ち株を全部売り出したのをきっかけに、大暴落が始まります。
鈴木は強気に買い向かっていましたが、勝負になりません。
1907年、年初の775円から年末にはたったの92円、年間暴落率88%の大暴落。
あっという間の出来事でした。
成金が歩に戻ります、投了です。
この暴落は多くの相場師たちを選別して、その運命をかえました。
<勝ち組>
野村徳七、岩本栄之助、福沢桃介
<負け組>
松永安左エ門、平沼延次郎、太田収
負け組の中には相場と共に人生を終わらせることを選んだ人もいました。
世間は冷たいものでお金を失った鈴木の元には誰も訪れなくなります。
花魁界にもそっぽをむかれ、正妻お豊にも逃げられたりと散々です。
新聞にも面白おかしく記事にされる始末。
こうして、鈴木久五郎の成金物語は終わったのです。
それから6年後の1913年、革命を成功させ中華民国前大統領となった孫文が国賓として来日します。
鈴木は宴に招待され、最高の贅を尽くしたもてなしを受けました。
そして、問われます。
昔、ご恩になったお礼がしたいのですが
お金の無心をしたい鈴木はその言葉が喉まで出かかりました。
巣鴨のわびしい借家では、正妻となったお花がやりくりに苦しんでいます。
しかしこの時、久五郎に相場師の意地が蘇りました。
...もうすぐ子供が生まれます。あなたの名を一字いただきたい
境遇を知る孫文は、深く感銘を受けました。
その時生まれて女の子は「文子」と名づけられます。
偉大な革命家の名をもらった少女は、松竹少女歌劇団を経て、NHKのアナウンサーになり活躍しました。
最後に
文子がアナウンサーとしてNHKの主婦日記で「子供のころは正月にお餅どころかお多福豆も買えないくらい貧乏だった」と苦労話をかたっています。
一時は、芸妓に数百万円する東株をお年玉で配っていたとの逸話もある久五郎が、そこまで貧窮するというのは驚きです。
- なぜ、安田の助言を聞いて、手じまいをしなかったのか
- なぜ、すでに資産があるのに相場が下がったら破産するようなポジションを取り続けたのか?
凡人の私には知る由もありませんが、どんなプロでも間違えた判断をするということでしょう。
あらためて相場の怖さを思い知らされました。
それでも孫文にお金を返してもらわない姿は痺れます、花魁界での奇行などの破天荒な面もありますが、相場師の意地を通す姿勢はさすがですね。
元祖成金、鈴木久五郎の物語は以上となります。
参考
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
(おしまい)