「死は生命の最高の発明」スティーブ・ジョブズと癌とiPhone誕生

今日、アップルは携帯電話を再定義する

2007年1月9日、iPhone 発表したスティーブジョブズは、携帯電話どころではなく、スマートフォン普及により人々のライフスタイルを再定義してしまいました。

  • 誰でもSNSで発信でき、人とつながれる
  • 知らないことは何時でも検索可能
  • いつでもYouTubeや漫画が見れる

そんな偉業を行なったジョブズの考え方の根底には、死生観がありました 。

本記事の内容
  • ジョブズを生まれ変わらせた挫折
  • Appleとジョブズの歴史
  • iPhone誕生を導いた、死との向き合い方

ジョブズの人生を通して学べる、究極のモチベーション維持手法。ぜひ最後までお付き合いください。

クーデター

ジョブズ
ジョブズ

誰の作った会社だと思ってるんだ!

ジョブスは激怒していました。 CEOのスカリーは自分を経営から除外しようとしている。 スカリーは元々ジョブズがヘッドハンティングしてきた人物です。

「明日からスカリーは中国出張だな」

ジョブズは逆に出張中にスカリーの解任を決めてしまうクーデターを画策、根回しを進めます。

ところが、スカリーは急遽出張やめ、緊急重役会を開きます。

スカリー
スカリー

ジョブズ、なぜ私が解任されなければいけないんだ?

計画はバレていました。

親しかったはずのAppleのフランス法人トップジャン=ルイ・ガセーに密告されていたのです。

二人の言い争いは収まらず、出席した重役にジョブズとスカリー、どちらを支持するのか質問していくことになりました。
結果は
 ・
 ・
 ・
全員スカリー支持。

「なんでだ?...」

10年間全てを注ぎ込んで作り上げたAppleを事実上追放され、ジョブズは過去最悪の落ち込みを感じます。

しかしこの時、ジョブズの試練は、まだまだ始まったばかりでした。

アップル創業

スティーブ・ジョブズは、1976年4月1日、二十歳のとき、共同創業者のウォズニアックと家のガレージでAppleを創業しました。

3ヶ月後の1976年7月、Apple Iを発売し利益を得ると、1980年には大幅に改良したApple IIを発売、これが10万台のヒット。1984年には200万台を超える売り上げ。

ちなみにApple I、II共にほぼ、ウォズニアック一人で作り上げたそうです。技術者からはその技術力を称え「ウォズの魔法使い」とも呼ばれていました。

こうして順調に成長を続けたAppleは、売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。

僕と一緒に世界を変えないか?

順調に成長していたAppleでしたが、組織が大きくなり人が増えてくるなかでジョブズは孤立していきました。ジョブズの決して妥協を許さない厳しい姿勢、 独断専行の態度が軋轢を生んでいたのです。

1981年、ジョブズとの対立により辞めた人物の後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られます。

ジョブズが目を付けたのが、ペプシコーラ社長のジョン・スカリー。難色を示すジョン・スカリー に対して、ジョブズは次のセリフで口説いたそうです。

ジョブズ
ジョブズ

このまま一生、砂糖水を売り続けるのか? それより僕と一緒に世界を変えないか?

ジョブズの熱烈な説得もあり、1983年、ジョン・スカリーがAppleの社長の座に就き、ジョブスと経営を推し進めました。

1984年1月、ジョブズのこだわりにより開発が遅れていたMacintoshがようやく発売にこぎつけます。
Macintoshは始めてGUIとマウスを採用した画期的な製品でした。

待望のマシンの発売で勢いに乗りたいAppleでしたが、販売目標の10%しか達成できない大失敗。

失敗の原因は、周囲の反対を押し切って決めたジョブズのこだわりでした。拡張スロットが無い、HDDが無い、冷却ファンが無い、シンプルさの追求は当時のハードスペックでは実現不可能で、「壊れやすい」「性能に余裕がない」「開発が難解となる」などの弊害を生んでいたのです。

ジョブズはあまりにも先を見すぎていました。

さらに、1985年2月6日、ウォズニアックがAppleを退社。

ウォズニアック
ウォズニアック

ジョブズはMacintoshを優遇し、Apple IIをないがしろにしている!

創業から共に闘った「魔法使い」を失ったジョブズは、魔法が解けてしまったかのように転げ落ちていきます。

人生でもっとも幸運な出来事

1985年5月31日、ジョブズはアップルを追放されます。

追放したのはジョンスカリー。

理想主義的すぎるジョブズに三行半を突きつけたのでした。

ジョブズの副社長解任要求は、なんと取締役会で全会一致の承認を得ています。

自ら作った人生をかけた会社から追い出されるという屈辱を味わったジョブズは打ちのめされます。

世間からは憐れみの目で見られ、 デビッドパッカードなど期待してくれている先輩経営者にも顔向けできません。 真っ白になり1か月ぐらい呆然と過ごします。

しかしスティーブ・ジョブズはこんなところで終わりません。後に次のように振り返っています。

「そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。」

NEXTでの苦悩

しかし実態はその言葉が示すような単純なものではありませんでした。

ジョブズはNEXTという会社を立ち上げ、全精力を注ぎこみ大学向けのワークステーションを開発。それも全く売れませんでした。

またもオーバースペックなものを作ってしまったのです。

赤字を個人資産で補填しながら経営を続けていましたが、資金も底をつきかけていました。部下も次々とジョブズの元を離れ、 Appleからついてきてくれた人も全て辞めていきました。

「自分のやり方には問題がある」

ようやく自分を冷静に見ることができた天才は、少しづつ変わっていきます。偉

選択と集中を進め、1994年、ようやく僅かながらネクストの黒字化に成功。

投資を続けていたピクサーがようやく完成させた、世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」が大ヒット。

「落ちたカリスマ」と揶揄していたメディアは手のひらを返してジョブズを称賛しました。

プライベートでも、1990年にスタンフォード大学にて講演を行った際、聴衆の一人であったローレン・パウエルと出会い結婚。 1991年9月には長男のリード・ポール・ジョブズが産まれています。

Appleの危機

一方、古巣のAppleは、ビル・ゲイツはのWindowsにシェアを奪われ、没落していました。
1993年に業績が大幅に悪化。責任を問われ、スカリーが退任。

後任のCEOマイケル・スピンドラーはAppleを売却を検討し様々な企業と交渉するも失敗、経営はちぐはぐなもので業績はさらに下降線、1996年1月辞任します。

そして、1996年の11月ごろ、Appleが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、次期OSの基本技術を外部に求めているという話を聞くと、ジョブズはすぐさま動きます。

当時のAppleCEOギル・アメリオに自社のOS、NEXTSTEPを売り込んだのです。

Appleへの帰還

1996年12月20日、Appleは、次期OSの基盤技術としてNEXTSTEPを採用すると発表、ジョブズはAppleに非常勤顧問という形で復帰した。

復帰したジョブズはあっという間にアメリオや対立する役員を追放、2000年にCEOに返り咲きます。

ジョブズ復帰以後、Appleは次々と世間にイノベーションを起こすヒット商品を発表します。

  • 1998年、iMac投入、Macの印象から大きく離れた同シリーズは大ヒット、世界に「Apple 復活」をアピールすることに成功
  • 2000年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入。数千曲の音楽データを気軽に持ち歩けるiPodは、世界中に衝撃を与えた。

ジョブズと死

2004年、ようやく才能を適切に使えるようになった天才は、悲劇に襲われます。

膵臓に癌が見つかり、医者からもっても半年だろうと告げられたのです。

自宅に戻り身辺整理しろ、家族に別れを告げろと言われます。ジョブズは観念し、絶望の中考えを巡らせます。

「子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければ。。。」

ところが、その日の午後、生検を受け膵臓細胞を採取し検査すると驚きの声が医師たちから上がります。極めて稀な手術可能な良性の膵臓癌だったのです。

このような経験からジョブズは「死は生命の最高の発明」と言い、人は死を意識することで充実した生き方ができると考えています。

ジョブズ
ジョブズ

私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。

以下は2005年6月12日、スタンフォード大学のスピーチで学生に向けた言葉です。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

日本経済新聞 「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳 米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて

この言葉を自ら実践し、残された時間を有効に使い生まれたのがiPhoneです。

世界を変えたiPhone

2007年1月9日、Macworldの講演でジョブズはiPhoneを発表。

この発表は文字通り世界を変えます。 iPhone のヒットによりスマートフォンが一般に普及。それまでパソコンを持っている人しか使えなかったインターネットの世界が、高校生から高齢者まで、スマートフォン持っている全ての人に開かれることになりました。

人々は誰でも SNSで 発信できるようになり、分からないことはいつでも検索可能で、行き先をオンライン地図で調べられ、動画を見れるようになりました。

1企業の1製品の発表により、世界の人々のライフスタイルが一変したのです。

スティーブだったらどうするか、とは考えるな

iPhone の爆発的ヒットにより、絶好調のAppleとは反対に、ジョブズの人生は終わりに近づいていきます。

2008年に肝臓への癌の転移が判明、2009年1月CEO休職、3月に肝臓の移植手術を受けます。その後も癌と戦いながら復帰と休職を繰り返します。

2011年8月24日、「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」と話し、後任にティム・クックを推挙しCEOを辞任。

2011年10月5日、膵臓癌の転移により、56歳の若さで亡くなられました。

最後までアップルを愛したジョブズは、最後の言葉を現CEOのティム・クックへにも残しています。

「スティーブだったらどうするか、とは考えるな」

自分のカリスマ性を理解し、アップルの未来とティム・クックを思っての言葉でしょう。

スティーブジョブズ死去のニュースは世界中に衝撃を与え、バラクオバマ大統領も弔意を表明しました。

<strong>バラク・オバマ</strong>
バラク・オバマ

スティーブはアメリカのイノベーターの中で最も偉大な一人であった。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げるための充分な能力があった。

<strong>孫正義</strong>
孫正義

スティーブ・ジョブズは、芸術とテクノロジーを両立させた正に現代の天才だった。数百年後の人々は、彼とレオナルド・ダ・ヴィンチを並び称する事であろう。彼の偉業は、永遠に輝き続ける。

孫正義とジョブズは旧知の仲で、携帯電話では後発のソフトバンクが第三勢力と呼ばれるまで勢力を伸ばすことができたのは、孫正義とジョブズとの「ある約束」のおかげでした。

最後に

スティーブ・ジョブズは、2005年6月12日、スタンフォード大学のスピーチで次のように話しています。

自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

日本経済新聞 「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳 米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて

2004年から膵臓癌に侵されていたジョブズは、まさにこの言葉を強く意識し、行動し続けたからこそ、世界のライフスタイルを変える素晴らしい製品、iPhpneを開発できたのではないでしょうか。

ジョブズ
ジョブズ

死は生命の最高の発明

人間が死ぬときの後悔、第一位は「他人の期待に従って生き過ぎた、もっと自分らしく生きればよかった」

ジョブズの言うように死をモチベーションに変えて、「後悔しない」人生を送りたいものです。


本記事は主にスティーブ・ジョブズのA面について語っています。激しい気性だったジョブズには癖の強いB面もあります。次の記事でまとめていますので興味のある方はチェックしてみてください

Coming soon

(おしまい)

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