スタンレー・ドラッケンミラーは、あの世界最高の投機家ジョージ・ソロスの愛弟子として知られています。
ソロスのクオンタム・ファンドを引き継いだもっとも信頼される人物です。
ドラッケンミラーの優れた点として次のような点が挙げられます。
- 経済全体の動きを読み取り、世界中の株式や債券・通貨に及ぼす影響を読み取る力が史上最強クラス
- リスク管理が完璧
- 30年にわたって年率30%の利益を何度も実現してきた
しかし、このような完璧な実力と経験を兼ね備えたドッケンミラーでさえ本人も認める『失敗』をしています。
そしてその失敗は投資家が『避けられない』ものなのです。
本記事は、ドラッケンミラーの失敗から投資家が学ぶべき「あきらめ」についてまとめています。
銀行から証券取引の世界へ
ドラッケンミラーは最初銀行員でした。
ピッツバーグ・ナショナル・バンクで才能を発揮し、わずか2年で株式調査部の部長に昇進します。
若さゆえの積極性と時代がマッチし運用成績は好調でした。数年経験を積んだある日、顧客から次のような話がありました。
あんた、銀行員何だって?そんなところで何をやってるんだい
銀行員の仕事です、正直言ってこの程度の経験で銀行に居られてとれも幸せだと思っています
自分の会社を始めればいいのに、私にちょっとアドバイスをくれたら月に1万ドルを払うよ、報告書もいらないよ
そうか、私の進むべき道は銀行員でないのかもしれない
ドラッケンミラーは自分の進むべき道に気付きました。
こうして彼は、1981年に銀行を辞め、デュケーヌ・キャピタル・マネジメントを立上げ、ヘッジ・ファンドの世界に入りました。
暗黒の月曜日のドラッケンミラー
暗黒の月曜日、ドラッケンミラーは伝説を残しています。
1987年前半、米国株式市場は年初から33回も新高値をつけるなど絶好調で、8月までに45%上昇しました。
しかしここが頂点でした。8月から相場は下り坂となり、10月19日(月)のブラックマンデーを迎えることになります。
ドッケンミラーは最初の一手を誤ります、10月16日(金)、8月から17%下げたこの日の水準が下値とみたのです。
そこで16日の午後、売りから資産の130%の買い越しにポジションを変えたのです。
そして迎えたブラックマンデー(10/19)、大幅な下落で始まり彼は甚大な被害を受けてしまいます。この1日でダウは過去最高22.6%下落するのです。
ここでドッケンミラーは反撃に転じます、僅かな反発で持ち株を売却し、さらに売りに転じたのです。
その後、ポジションを買い戻して利益を確定すると、ブラックマンデー後のわずか2日間の反発の後に再び売りを仕掛けました。
そして木曜日(10/22)の寄りつきが安く始まると買い戻し24時間たたずに25%の利益を出しました。
ドッケンミラーは最初の一手を誤ったにも関わらず、暗黒の月曜日で利益を出すことに成功したのです。
ジョージ・ソロスからのオファー
1986年、実績が評価されドレイファス社と雇用契約を結びます。そこでは7本のファンドを運用し、当時のファンド業界で最高のパフォーマンスを記録しました。
デュケーヌ・キャピタル・マネジメントの運用も継続しており、多忙な日々を送っていいたドラッケンミラーでしたが、それらを全て捨てて新しいファンドに入る事になります。
うちのファンドに来てほしい
最も偉大な投資家として尊敬しているジョージ・ソロスからオファーがあったのです。
ただ「ソロスはいい給料を出すがすぐクビにする、オファーがあっても行ってはいけないよ」と業界の先輩にいわれていました。
そんな評判でしたがドラッケンミラーはソロスの投資理論にすっかり魅せられていて、崇拝さえしていました。
光栄です、宜しくお願いします。
決意を伝えるとソロスはこのように言いました。
君は私の後継者だ
ドラッケンミラーは喜びましたが、実はドラッケンミラーは10回目に選ばれた後継者で、他の後継者はすでに脱落してしまっていたのでした。
クオンタム・ファンドのドラッケンミラー
最初から順風満帆とはいきませんでした、ソロスは事あるごとにドラッケンミラーの取引に口を出してきました。
船に船頭は2人もいりません、そのようなやり方をしているとどうしてもうまくいきませんでいた。誰もソロスほどの経歴を持った人には逆らえません、圧倒され萎縮してしまうのです。
さらに事件が起きます、ドラッケンミラーが取っていた債券のポジションをソロスがかってに決裁してしまったのです。
やっていいことと悪い事がある!
いよいよ2人の関係が危なくなってきた頃、ドラケンミラーに幸運が訪れます、1989年年末東ヨーロッパ情勢の激動に伴う資本主義への移行を援助するために、ソロスが1ヶ月間ファンドを留守にする事になったのです。
ここからドラッケンミラーは実績を積み上げます。
ドイルマルクを売る
そのソロスが関わっている東ヨーロッパ情勢の激動によりベルリンの壁が崩壊し、ドイツ経済の財政は急激に悪化しました。
ここで、独マルクのを大量に買い込んだのです。ドラッケンミラーが「これほどトレードに自信を持った事はない」と言いきったトレードは20億ドルの利益を得ました。
なぜこれほど強気になれたのか?
実はドラッケンミラーの強気の根拠は、ソロスの著書「ソロスの錬金術」の中で述べている斬新な投資理論でした。
平成バブルでの日本円ショート
ドラッケンミラーは1989年の日本のバブルに目をつけ、そろそろ破綻が近い事を察知します。
- ここ数年のチャートをみると日経平均は明らかに上げ過ぎている
- マーケットは投機により激しく吹きあげられていた
- 日銀は金融引き締め政策に大きく傾いていた
- 日本国債が下落していた
確信を得た、ドラッケンミラーは日本円に対して大きく売りのポジションをとります。
その後、バブルが崩壊したのはご存知の通りです、ドラッケンミラーは大きな利益をあげます。
後に「日本株を売る事はそれまで見た中で最もリスク効率のいいトレードだった」と振り返っています。
ポンド危機でイングランド銀行と闘う
1992年8月、自信をつけたドラッケンミラーは、英ポンドを売るタイミングを測っていました。
当時の英ポンドは、マルクに対して一定の幅でリンクされていました。しかしイギリスは不況で苦しんでおり、高金利を維持しているのは無理があり、いずれ破たんすると読んだのです。
さらに検討を重ねドラッケンミラーはこの取引にファンドの全財産をつぎ込むほどの確信を得ました。
投資を開始する前にソロスに相談します。
ファンドの100%の資金を英ポンド売りに賭けたい
説明を終えるとソロスは苦痛に歪んだ表情を見せました。
それは、これまで耳にした中で最も無茶な資金運用方法だ、君が説明してくれたのは、恐ろしいほど一方向への賭けだ
では、比率を見直しましょう...
ドラッケンミラーは納得がいかないまま、投資資金の落とし所を探ろうとしました。
私たちは、この取引に100%でなく、ファンドの200%の資金を賭けるべきだ
この投資の顛末は別記事でまとめていますので割愛しますが、この取引でソロスは
「イングランド銀行を破産させた男」の称号を得ますが、発案者はドラッケンミラーでした。
再度の日本売り
ソロスの信頼を得たドラッケンミラーはその期待通りのパフォーマンスを上げます。
1989年:31.5%
1990年:29.6%
1991年:53.4%
1992年:68.8%
1993年:63.2%
そして1994年、再度日本円に売りを仕掛けます。
その規模は80億ドルにものぼり、名を上げた英ポンド売りと同等規模で自信のほどがうかがえました。その他のファンドマネージャーも追従し日本円売りを仕掛けます。
日本はバブルが弾け、円高がかなり進行しており、1994年にはじめて1ドル=100円の大台を突破していました。
そろそろ円安方向に進むと読んだのです。
しかしその後も1995年まで円高が進み、底値では1ドル=80円割れを記録したのです。
その時のドラッケンミラーの取引は失敗、円は対ドルで7%上昇わずか2日間で6億5000万ドルを失いました。
その年は他のマクロ・トレーダー達も総崩れとなり、ドラッケンミラーのこの年のリターンはわずか4%に留まります。
ただ、ダウは1.5%のマイナスだったので、それよりはマシなのですがドラッケンミーとしては不本意な年となりました。
ロシア危機
1998年、東洋の奇跡ともてはやされたアジアから資金が引き揚げられ、アジアに通貨危機がおきていました。
影響はロシアにも及びロシアの短期債利回りが、120%となり、危険水域となります。
しかし世間は安心していましたその理論は
「核保有国はデフォルトしない」
ことでした。
ところが、1998年8月13日にロシアの短期利回り200%となり、8月17日月曜日、あっさりデフォルトを発表します。
核保有国はデフォルトしないんじゃないの
ここから世界中の市場が崩れました。
ドラッケンミラーも影響を受け、クウォンタム・ファンドは、20億ドル以上もの損失を出してしまいました。
ただ、その他の取引は順調で年間リターンは12.4%を確保しています。
この時、LTCMという史上最強と言われたファンドが破綻に進み始めました。そのと経緯は次の記事にまとめています。
ITバブルでのドラッケンミラー
ITバブル全盛の1999年の前半、ドラッケンミラーは割高と判断したIT銘柄を2億ドル分空売りします。
しかし、そのうち下落すると見ていた割高株はさらに上昇、この取引でドラッケンミラーは6億ドルの損失を出してしまいます。
やはり、よくわからないものに手を出すべきじゃないな...
ドラッケンミラーはこの取引から手を引きます。
しかし、「ITにより革命が起きてる」との世の中の論調に耐えられず、若手のトレーダーを雇い、IT関連の取引を行わせました。
若手は割り当てられた運用資金で全力買い、35%の利益を得ます。
ドラッケンミラーは、理解できないIT関連の銘柄を取引することに嫌気がさし、そのポジションをすべて売却してしまいます。
ドラッケンミラーにはこれまで流動性と景気の風向きをよむグローバルマクロの世界で生きてきた自負があります、その取引に戻ったのです。
ところが、ユーロの売買などで失敗し、なかなか調子が出ません、さらに売却したIT銘柄はその後もどんどん上昇しています。隣では若手のトレーダーがさらに利益を上げていました。
ドラッケンミラーはIT銘柄への投資を再開することを決意します。
ウォールストリート・ジャーナルのインタビューでこのように話しています。
私はこの市場が好きではなく、余り関らないほうがいいのかもしれない
予感は的中し、ITバブルが崩壊するとナスダック総合指数は25日で34%下落、ドラッケンミラーが保有指定銘柄に至っては最高値からわずか1.5%まで下落しました。
ドラッケンミラーは記者会見で敗北を認めます。
マイケルジョーダンのように絶好調の時に引退できれば良かったのですが...
強気に出すぎてしまいました
この年、クオンタムファンドの年間リターンはマイナス21%となりました。
ドラッケンミラーの失敗から学べる事
さて、私たちはこのドラッケンミラーの失敗から何を学べるでしょうか。
バフェット「自分の得意ではない分野に手を出すべきでない」
チャーリーマンガー「誰かが自分より早く儲けいている事を気にするのは大罪です」
でしょうか。若しくは次のソロスの教えでしょうか。
そのトレードに強い確信を持っているなら、全てを賭けて勝負しなければならない
多くのファンドマネージャーはその年に30%~40%の利益を得ると満足してその残りの期間は護りのトレードをします。
それは間違っています。そこでさらに勝負を続け、年100%のリターンを目指すのです。
問題はマーケットの見通しが正しいか正しくないかではなく、 正しかったらいくら稼げ、間違っていたらいくら損するかなのだ!
つまり、そこまで確信の持てる取引しかしてはいけないと言う事です、このIT関連の例はあきらかに『確信』とは程遠い状態で行われました。
彼は次のように語っています。
この失敗でわたしは何を学んだのでしょうか。何も学びませんでした。私は自分の取引をすべきでない事をわかっていました。ただ自分を止められなかった。「今後はあんな事は2度としない」と言う学びはあったかもしれません。
しかしそんな学びさえもドラッケンミラーには不要な経験済みの物のハズでした。
最後に
では、私たちは何を学べばいいのでしょうか、何を教訓とすればいいのでしょうか。
それは、
「あきらめる」
ことです。「相場の未来は誰にもわからない」「人は経験から駄目だとわかっている取引でも手を出してしまうことがある」 のであれば、人は市場と付き合っていく中で無傷でいられることは不可能なのでしょう。
そのように割り切るしかありません。
そして私たちにできる唯一のことは、次の事くらいです。
つまり、失っても致命的にならない金額の範囲で投資する事なのです。これが本記事の結論になります。
関連記事
ドラッケンミラーの師匠ジョージ・ソロスについては別記事でまとめていますのでそちらもご覧ください。
参考資料
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
◆書籍:
新マーケットの魔術師―米トップトレーダーたちが語る成功の秘密
ビッグミステイク レジェンド投資家の大失敗に学ぶ
- 本カテゴリの記事は基本的に主人公寄りで書いています。
- 極力資料に基づき記載していますが、会話の内容など一部脚色しています。
(おしまい)