泣く子も黙る球界のドン・渡邊恒雄氏。
テレビなどで記者に吐き捨てるように語っている姿が印象的です。
無礼な!分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!
しかし、最近はその姿を見かけることも少なくなりました。
- ナベツネは何故あんなに権力を持っているのか
- 現在はどうしているの? 死亡したって記事を見かけたけど本当?
- ナベツネの伝説やナベツネ語録が知りたい
そんな疑問が解決します。
3分ほどの内容です、是非最後までお付き合いください。
何故ナベツネはあんなに権力を持っているのか
プロ野球界の最高決定機関は、12球団のオーナー会議です。
その12人しかいないオーナーの中でも頭1つどころか10個くらい抜け出した権力・発言力を持っているのが巨人の渡邊恒雄オーナーです。
球界の独裁者とも言われる渡邊オーナーとは何者なのでしょうか。
渡邊恒雄の経歴
1926年、東京都杉並区で5人姉弟の3番目の長男として生まれます。
8歳の時に父親が亡くなり、一家の棟梁になって欲しいとの願いから母親に厳しく育てられました。
そして、成績優秀だった渡辺青年は1943年に東京大学(当時:東京高等学校)に入学します。
戦争も経験し、日本共産党の党員となるなど、在学中にハードな経験を積んだ渡辺青年。
東京大学を卒業後、読売新聞に入社し政治記者となり、自民党の大物・大野伴睦の番記者となるのです。
大野邸に通っているうちに親しくなり、あるとき大野に『ナベさん、小遣いがいるなら言ってくれ。いくらでもやるよ』と言われます。
当時の記者はみんなお金を受け取っていたようですが、渡邉氏は『お金はいりません』ときっぱり断る。
すると大野は『俺に「金はいらない」と言ったのはおまえが初めてだ』と驚きます。
しかしそれ以来、渡邉は大野から信頼を得られたのです。
ここから渡邉は読売グループのドンに登り詰めていき、他紙の社長とは別格の政治的影響力を持つようになりました。
- 1977年、編集局総務
- 1991年、読売新聞社社長
- 1991年、横砂審議委員に就任
- 1996年、巨人のオーナーに就任
- 1999年、日本新聞協会会長
渡邊恒雄の伝説
大物政治家の番記者から、日本新聞協会の会長まで上り詰めたナベツネ。
政界にも影響力を持ち、平成に起きた政変には、渡辺氏の影がちらついていたと言われるほどです。
- 大野番になった他紙の記者は、大野氏より先に渡辺氏に挨拶に行く
- 組閣や自民党役員人事に力を持ち、何人もの政治家が『入閣させてほしい』と頼みに来る。
- 女優をしていた鍋島篤子と結婚
- 中曽根康弘氏(後の総理大臣)はそうした口利きで科学技術庁長官に入閣したことから盟友
- 安倍晋三・首相や菅義偉・官房長官も“ひよっこ”扱いで、定期的に呼びつける
読売新聞という武器を持っているから、怒らせると『内閣を潰す』と倒閣キャンペーンを張るとの脅しもきいたようです。
ナベツネ語録
また、渡辺氏は奔放な発言で有名です。
- ナベツネ 「ヤクルトや日ハムや西武は企業名をつけてるのに、なんで巨人は駄目なんだ」
記者 「巨人」は「読売巨人」の略ですが何か?
- 桑田の結婚が報じられると「よくあんな借金まみれの男に嫁が来てくれたな」。
- 不振の清原が肉離れで離脱すると「これで勝利の要因が増えた」。
- 契約更改を保留した8選手に「ろくな成績も残さないでナニ言ってる。冗談じゃない。そんなヤツは巨人を出ていけ、去ればいいんだ」
- それが当時のエース・斎藤や槇原だと知り、「下(二軍)にいるクズみたいなヤツが言ってると思ったんだよ」と、すぐ撤回。2軍がクズの発言も問題に。。
- マントに対し、「マントが全て悪い!マントとクスリは逆さから呼んではだめだ」
- ガルベスが審判にボールを投げつけたときに「それほどじゃないんだ、審判にボールを投げつけることぐらい」
- 02年日韓W杯開催時には「W杯は6月で終わる。日本におけるサッカーは、これで滅びる」
- 「巨人が勝っても景気が良くならないなら、総理に辞めてもらうしかない」
- DeNAが球団名に「モバゲー」の名称を使うことを検討していることについて「モガベーという名前で1つの球団を作るというのは無理だよ」
モガベー?
様々な問題発言もありましたが、その権力とキャラクターで世間からは容認されている状態でした。
ナベツネの失敗
権力を持ち奔放にふるまっていた渡辺氏ですが、2004年に世の中の流れを読めずに失敗しています。
当時、ナベツネとオリックスの宮内会長がタッグを組んで、 幾つかの球団を合併させて、1リーグ制とする改革を推し進めていました。
しかし、ホリエモンの近鉄買収会見をきっかけとした反対の世論が高まる中、 さすがのナベツネも本気でたたかれ始めます。
そして、事件がおきるのです。
2004年7月8日、ナゴヤドームでの中日・ヤクルト戦の試合後、当時の選手会会長だったヤクルト・古田敦也が「オーナーと直接、話をする機会を持ちたいか?」と取材陣に聞かれてこう答えた。
そうですね。いいですね。開かれた感じでいいと思います
しかし、料理屋で会食を終え、アルコールも入った渡邉が記者から受けた質問はこうだった。
「明日、代表レベルと選手会の意見交換会があるのですが、古田選手会長が代表レベルだと話にならないので、できればオーナー陣と会いたいと……」
その結果、あの言葉が出てきた。
とっさにこの言葉がまずいと思ったのか、渡邉は切って返す刀で、こうフォローした。
「たかが選手といっても立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話すなんて協約上、根拠は一つもないよ」
だが、ときすでに遅し。
この伝言ゲームによって伝えられた言葉と、それに応じた渡邉の発言が、球界再編のその後の流れを大きく転換することになってしまうのです。
さらに一場事件が起こります。
ドラフト自由枠での獲得を目指していたプロ野球の複数球団が日本学生野球憲章に反して現金を渡していたことが発覚のです。
2004年8月13日 渡邊恒雄 オーナーが引責辞任が発表されます。
その金額はたったの200万円。
これまでの渡邊の権力であればなんてことないはずの事件が、世間の反オーナーサイドの流れの中、読売新聞の不買運動などにつながり辞任に追い込まれたのでした。
ただ、結局その後1年足らずして球団会長に就任するんですけどね。
ここら辺の球界再編については「ホリエモンのプロ野球参入 | ライブドアと楽天とソフトバンク、勝敗を分けた鍵とは!」でふれていますので、興味のある方はどうぞ。
ナベツネの現在、死亡説
2018年11月中旬、ツイッターでの発言がきっかけで、ナベツネ死亡説が流れます。
2018年8月に自宅で転倒し頸椎骨折して入院しており、92歳という年齢からも事実ではないかと噂されていました。
しかし結果はデマ。
2018年12月に原辰徳監督の記念パーティーに出席し、元気に発言されています。
死亡説が流されたから来たんだよ
賛否はありますが、この人の発言は花がありますよね。
最後に、ナベツネの家族愛
強烈な個性を持ったナベツネさんのエピソードいかがだったでしょうか。
奔放な発言などで色々叩かれていますが、なぜか憎み切れないところがありますよね。
最後に家族についてのお話で締めくくりたいと思います。
自身が厳しくしつけられたように、息子さんにも鉄拳制裁を加える・家庭教師を何人もつけるなど厳しく育てます。
ただ、厳しいだけではなく、風呂は必ず一緒に入るなどコミュニケーションも取っていたようです。
その甲斐あって、三井住友信託銀行に入社し、現在は専務にまでなっています。
また、元女優の妻・篤子さんがクモ膜下出血の発作を起こし、認知症となってしまいます。
数年後に亡くなられるまで、その妻の面倒をナベツネさんが熱心に見ていたようです。
癖の強さや強引なやり方から批判的な意見もあるナベツネですが、良くも悪くも自分の家族や組織を大事にし、全力で愛する姿勢は一貫しています。
参考資料
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
◆Webサイト:
渡邉恒雄 – Wikipedia
- 本カテゴリの記事は基本的に主人公寄りで書いています。
- 極力資料に基づき記載していますが、会話の内容など一部脚色しています。
(おしまい)