孫正義の家族 | 密航した祖父、連続起業家の父、ガンホー創業者、美空ひばり似の母、奥様と2人の娘と孫

孫正義の家族

2020年の日本長者番付2位に名を連ねる孫正義さんはご家族もきらびやかです。

父親 :連続企業家、最大年商100億
母親 :美空ひばり似の美人
弟  :パズドラのガンホー創業者、資産3000億円以上
弟嫁 :「恋のから騒ぎ」一期生、声楽家「せいあ リー」
奥様 :東京の大病院の経営者の娘
娘  :ゴールドマン・サックス勤務

ただ、日本で成功するまで、孫家には在日韓国人として波乱万丈の歴史がありました。

祖父:ボロ船で日本に密航、沈没寸前のところを漁船に助けられる
   プライド高く、基本働かない
祖母:狭いバラックで豚を育てていた
   慈愛の人、豚の子供にも母乳を与えていた
父親:中学から働き、密造酒作り、金貸し、パチンコ屋と起業

孫正義さんのルーツを辿ると異端の天才事業家のパワーの秘密が見えてきます。

孫正義さんの祖父・祖母・父のエピソードについては「あんぽん 孫正義伝」を参考にさせていただきました。

著者の佐野眞一さんは、この本の中で孫一族について次のように言っています。

「この血族に堅気はいない」

祖父・孫鍾慶(ジョンギョン)

おじいさんの名前は孫鍾慶(ソンジョンギョン)さん。

孫正義の祖父なら、さぞ勤勉な人だろうと思いますが、意外にも「働かない人」だったそうです。

30歳過ぎてもうだつが上がらない鍾慶さん、お嫁さんも見つかりません。

そこで、孫さんのおばあちゃんの家に通い詰め「結婚できなきゃ自殺する」とストーカーまがいの行為に及び、ようやく結婚してもらったそうです。

働かないで酒を飲み、酒癖が悪くよくケンカする。

最低の男のように見えますが、孫家の誇りは持っていました。

孫鍾慶
孫鍾慶

孫家は武人や文官や学者の多い家系、だからどんなに貧しくても、プライドだけは忘れちゃいかん

マッカーサーが農地解放して小作人がみんな土地をもらっていた時でも「人のモノは返さなイカンのがわからんのか」と土地を貰わなかったそうです。

ただ、おばあちゃんはめっちゃ怒ってたみたいですけどね。

李元照
李元照

うちの父ちゃんは気位が高い、くそくらえって位だ

肝はすわっていたそうで、「畑の近くの墓地で兵隊さんが首を吊っていた。それを親父は黙々とおろしてやっていた」

「戦争中に戦闘機が来ても、なにこの野郎!と叫んで田んぼの草取りを続けていた」

なんて話が伝えられています。

そんなお爺さんですが、時代の波に翻弄され2度ほど、孫家存亡の危機に瀕しています。

危機① 密航船が沈没

孫鍾慶の家は代々、韓国の大邱で稲作をしていましたが、日本軍に農地を奪われ、仕方なく日本に出稼ぎに行きます。

日本で鍾慶はおばあさんと出逢い(ストーカー)、4男3女の子宝に恵まれます。

長男の三憲(みつのり)さんが孫正義さんのお父さんです。

鍾慶さんは戦後、家族を連れて、韓国の大邱に戻ります。

しかし大邱には仕事がなく、1年後に日本に戻ることになりました。

密航するための船を手配し、何日も順番待ちした末にようやく、出港が決まります。

ところが、その船がおんぼろ漁船で今にも沈みそうなのです。

ところが、その船がおんぼろ漁船で今にも沈みそうなのです。

「次のチャンスがいつ来るかわからない」

仕方なく乗り込み、大邱をでますが、しばらくすると本当に浸水してきました。

このままでは沈みかねない!

必死で水を汲みながら「だから俺は日本になんか帰りたくなかったんだ」と息子の三憲さんは号泣します。

奥さんの李元照は「子供を死なせるわけにはいかない」と叫びながら必死に水を掻き出す。

そこに棒に火をつけている難破船を見つけた、日本の漁船が来てくれました。

「助かった」

お金を渡し、山口県の仙崎というところまで引っ張っていってもらいます。

密航なので恐る恐る上陸、汽車に乗りようやく佐賀県の鳥栖に落ち着くのです。

この時、船が沈んでいたら、希代の経営者の誕生はありませんでした。

ちなみに、みんなが必死で船底の水を汲んでいた時も、鍾慶さんだけは働かなかったそうです。

危機② 北朝鮮への帰還事業

当時、普通にくらいしていた朝鮮人一家が突然、町から消えるような事態が起きていました。

北朝鮮の帰還事業です。

この頃、「北朝鮮はこの世の天国」と宣伝し、多くの在日韓国人が北朝鮮に渡っています。

この時、孫鍾慶さんがその道を選択していたら、日本の孫正義は存在しませんでした。

祖母・李元照(イウォンゾ)

祖母・李元照(イウォンゾ)

孫正義さんの祖母の名前は李元照(イウォンゾ)さん。

韓国では夫婦で別姓を名乗るため姓は「李」です。

14歳で韓国北東部の江原道から日本に渡ってきて、14歳で30代前半の孫鍾慶と結婚しました。

白いチマチョゴリを普段着にしていて、がっちりした体格で、両足を大きく広げ、がに股で歩く。

鍾慶さんとは対照的に働き者で、ボロ買いや鉄屑拾い、豚を飼ったりと必死で働き、4男3女を育て上げました。

愛情豊かでみんなのことが心配でしかたない、兄弟が大きくなり商売でもめると自ら仲裁にはいるような人でした。

極めつけは、豚飼育のエピソード。

飼っていた豚に子供が産まれると、豚小屋に泊まり、親豚のおっぱいを揉んだりしながら一晩中一緒にいてやったそうです。

なんと自分のおっぱいを子豚に飲ませたりもしていたとか!

これは「あんぽん 孫正義伝」に乗っている息子の三憲さんが語るエピソードですが、三憲さんは話を大げさにする傾向があるようなので、話半分に聞いておきましょう。

なんと自分のおっぱいを子豚に飲ませたりもしていたとか!

このように必死で働きましたが、貧乏で食べるものに困るほどでした。

住んでいた鳥栖の駅前のバラックは「無番地」と呼ばれる、豚や羊と一緒に生活する非常に貧しく不衛生な場所。

やっと生活が楽になってくるのが、孫さんのお父さん・三憲さんが働きだし、密造焼酎売りやパチンコなどで成功してからでした。

息子が大成功して、鳥栖の郊外に9百坪の大豪邸を建てると、そこで暮らし始めます。

ところが、しばらくすると、バラックが懐かしくなり、お祖母さん1人で戻って寝起きしていたそうです。

環境は劣悪でしたがが、子供たちとの思い出が詰まった、バラックが一番好きだったおばあさん。

そこに家族が宴会で集まると、狭い道にベンツなど外車ががズラーと並ぶ異様な光景が広がったそうです。

孫正義とお祖母ちゃん

孫正義とお祖母ちゃん

孫の正義さんの面倒もよく見てくれました。

両親が忙しく働き留守にしがちだったので、基本おばあちゃんに面倒を見てもらっていたのです。

正義少年もよくなつき、おばあちゃんが大好きだったのですが、成長するにつれて疎遠になっていきます。

理由は、「お祖母ちゃんの存在」=「自分が在日韓国人として差別を受け苦しむ象徴」となってしまったから。

正義さんが差別を乗り越えたとき、おばあさんと一緒に、故郷の韓国北東部の江原道に自分のルーツを見る旅にでました。

おばあちゃんは非常に喜んだそうです。

李元照
李元照

正義、やっと韓国に行く気になってくれたか

孫正義の起業家伝説の始まりとなる自動翻訳機の発明は、アメリカに遊びに来たお婆ちゃんが言葉に苦労しているのを見て思いついたとか。

1981年、正義が日本ソフトバンクを設立した年に心臓病で亡くなります。

正義さんは、すぐに鳥栖に帰ってきて、お祖母ちゃんの葬儀に参列し、人目をはばからず泣きました。

2010年6月25日、ソフトバンクグループが「ソフトバンク 新30年ビジョン」を発表したとき、正義さんは自らのルーツについて、おばあちゃんの思い出と共に涙ぐみながら語っています。

父・三憲(みつのり)

父・三憲(みつのり)

「僕が今でも最も尊敬するのはオヤジですね。オヤジは全くのゼロからというよりマイナスからのスタートだった。いろいろな困難がある中で、それを乗り越える情念と執念ね。そして常に自分の頭でアイデアを生み出していくんですよ。」

孫正義がそのように称える父・三憲さんは「無番地」のバラックから困難な道のりの末に成功をつかみます。

7人兄弟の長男で、貧しい家計を支えるため、中学卒業したとき校門の前で通信簿をやぶき、働き始めました。

最初に始めたのがヤミ焼酎売り。

ただ、家の近くは同業者が固定客をがっちりつかんで付け入るスキがありません。

その為、自転車の荷台に密造酒が入った一斗缶を載せて、山を越え、1日がかりで誰も知る人がいない遠くまで売りに出ていかなければいけませんでした。

ところが、初めて見た青年のヤミ焼酎など誰も買ってくれません。

当時は「ヤミの焼酎にはメチルアルコールが入っているから目がつぶれるなど」など言われていて、客は敬遠したのです。

三憲青年
三憲青年

俺は何をやってもダメな奴なんだ

絶望しながら、売れ残った重い一斗缶をまた山を越えて持ち帰る日々。

しかし、三憲さんにはお祖母さんから受け継いだ胆力が備わっていました。

「絶対成功してやる」諦めない三憲さんは次々に策を仕掛けます。

この商品は大丈夫だと証明するために、中学を出たばかりながら、自分がその焼酎を飲んで見せたのです。

さらに「試飲」サービスまで組み合わます。

三憲青年
三憲青年

僕も飲みますから、おじさん一緒に飲みましょうよ

次第に信用を勝ち取った三憲さんは、仲良くなった人に「1本おじさんにあげるから、2本分を売っといてほしい」と販売を委託。

商売をどんどん広げていったのです。

孫正義さんは、このエピソードを、ソフトバンクの携帯キャンペーン「ただとも」のルーツだと話しています。

ヤミ焼酎売りは違法ですので、税務署の手入れが入り始末書を書かされるのですが、あっけらかんとしていて、またすぐ同じことを始めるなど肝が据わっていました。

商売熱心で「やっぱり商売に笑顔は大事」と日々笑顔の練習もしていたとか。

ただ、やり過ぎてお母さんの李さんに「あの子は大丈夫だろうか?」と心配されていたそうです。

様々な業種に挑戦

1995年19歳で、玉子さんと結婚、4人の子供をもうけます。

1956年、長男の正明さん
1957年、次男の正義(ソフトバンクG会長)
1964年、三男の正憲さん
1972年、四男の泰蔵(ガンホー起創業者)

母親と妻の玉子さんと必死で働き、徐々に暮らし向きが上向いてきます。

余裕のできてきた三憲さんは、正義さんが小学校にあがるころ、鳥栖の朝鮮部落を離れ、JR黒崎駅から車で10分ほどの北九州市八幡西区に移り住みました。

ここでは、養豚や蜜密造酒作りから足を洗い、金貸しに職業を変えます。

ターゲットは八幡にあった製鉄所の工員。

三憲
三憲

鉄は国家なりだ。製鉄所は絶対つぶれない。製鉄所がつぶれるときは、国がつぶれる時だ。だから、八幡の工員にいくら金を貸しても取りっぱぐれはない

これがサラ金がない時代に大当たり。

さらにパチンコ業に手を広げ、どんどん店を増やし、20軒程に拡大するほどの大繁盛。

親戚の人曰く「立ち止まる事を知らない人」

三憲さんの経営は奇抜とも思えるアイディアにあふれていました。

  • 当時のパチンコ界の常識を超える大型店舗を作成。通常採算が取れないが、逆に赤字覚悟で出玉を大サービス。固定客を掴み、サービスを終えた後も繁盛した。
  • パチンコのフィーバー規制で経営が傾くと隣に釣り堀を作り、その中に赤鯛を入れて、釣れれば一万円のサービスを始める。この策により、釣れた人はパチンコ店に行くしパチンコした人がついでに釣りの相乗効果で、客足が戻った。
  • 喫茶店経営で、当時誰もやっていなかった「コーヒー無料券」を配布。

最盛期は、パチンコ店20店舗、不動産・焼肉屋、サラ金、ゴルフ場経営まで手を伸ばし、年商は100億にもなりました。

「立上げ好きな男」で商売を始め軌道に乗ると奥さんや長男に「後は任せた」といっては、自分はさっさと違う事業の立ち上げに乗り出す。

この「周囲が心配するほどの資金投入」「斬新なアイディア」「業種を次々変える」は息子・正義さんにしっかり引き継がれていますね。

息子は4人いますが、正義さんのほかに、パズドラを創業した孫泰蔵さんも大成功しています。

2人の成功者が「オヤジは最高の教育者だった」と口をそろえて言う、父親・三憲さんの教育法は独特なものでした。

息子にバトンタッチ

三憲さんの快進撃は、バブル崩壊と共に終りを迎えます。

株だけでも44億もの損失。

その後始末に息子の孫正義さんも動くほど、深刻な状況でした。

借家のパチンコ店が競売にかかってしまうと「第三者に迷惑はかけられない」とその土地を孫正義が買い戻したり、鳥巣郊外の豪邸を差し押さえられた家をソフトバンクの関連会社が落札したりしました。

対象的に、この年、ソフトバンクは店頭上場して、孫正義は一夜にして資産三千億円となっています。

孫正義
孫正義

負債の面倒は見るけど、お父さんには金は貸さん。事業の方の負債は自分で始末してくれ。もうお父さんのビジネスセンスでは商売できないから、やめておいてくれ

めげない三憲さん、「息子が生意気なこと言いよって」とお冠だったそうです。

現在

息子たちが独立してからは、毎朝、起業した2人息子(正義・泰蔵)に電話するのが日課となっています。

「ちょっと今日、凄いアイディアば思いついたからね、聞いてんね?」

「通信料はタダにせにゃいかん、コンテンツで利益を上げろ」

「グーグルのディープラーニングってのはすごかね」

それどころか、東京に直接会いに行って経営について話をすることも。

さすがに最近はないとは思いますが、すくなくとも2011年頃まではあったようです。

老いてなお盛ん。

息子の正義さんが引退を撤回するわけですよね。

ちなみに三憲さんは、昔から西武ライオンズのファンです。

「ソフトバンクが、ホークスを買収したのは、孫正義の親孝行だったのではないか」と噂されています。

孫三憲
孫三憲

ダイエーホークスはつぶれる、宣伝のために二、三十億赤字を出しても、買うたらいいんじゃないか

母・玉子さん

母・玉子さん

孫正義のお母さんの玉子さん。

若いころは、美空ひばり似の美人で芸能事務所からスカウトが来るくらいで、近所でも美人と評判だったそうです。

三憲さんの一目ぼれで、三憲さんが玉子さんの実家に通い詰めた結果、19歳で結婚しました。

性格的には芯が強くシャキシャキして負けん気ある人。

嫁いだ時、孫家には男尊女卑の考えが残っていて、お婆さんからの「嫁いびり」はかなりのものだったようで「おしん」以上だっととか。

良く働き、三憲さんと一緒に様々な事業を行っています。

孫玉子
孫玉子

商売は、お金儲けだけではうまくいかないものよ。商売人というのは、人とのつながりを作れればお金もおのずとついてくるわけよね

信心深い人で、自分の母親や三憲さんが血を吐いて倒れた時などは、山に通い、滝行をして回復を願ったそうです。

ただ正義さんが小さいころから夫婦喧嘩は絶えなかったようで、現在は別居してとのことです。

夫婦間の事なので真相は本人たちにしかわかりませんが、周囲の評価も様々です。

  • 玉子の弟
    夫婦仲最悪、三憲さんは女癖が悪い、暴力も振るう、洋服の一枚も買ってあげた事がない。
  • 玉子の姉
    仲ほんとは悪くない、三憲さんは「玉子がおらんと、わしは生きていけない」と言っている。玉子も三憲に呼ばれるとご飯を作りに飛んでいくし、「最後は私のところに来る」と言っている
  • 玉子の妹
    私が何か話すと玉子が三憲に殴られます。
  • 玉子の末妹
    評判は悪いが、本当はやさしくていい人。自分の兄弟に商売で裏切られてから荒んできた。三憲さんは家の一億五千万の債務保証を一人で面倒見てくれた。

孫家には一筋縄ではいかない複雑な何かが蠢いているようです。

兄・正明さん

兄・正明さん

孫正義のひとつ歳上の兄・正明さん。

正義さんが中学生の3年生の時、働き盛りの親父が吐血して倒れるという一家危機が起こります。

その時に母を助け一家を支えたのが正明さん。

家族のために高校を辞め働き始めたのです。

そのおかげで、正義さんは勉強に集中し、アメリカ留学を経てソフトバンクを起業する事が出来ます。

ソフトバンクの恩人と言えます。

3男の孫正憲さん

父親の三憲さんから一字もらっています。

期待され、育てられたと思われますが、残念ながら三憲さんの評価は低いようです。

全く情報が出ていないので現在の姿は「謎」です。

4男の孫泰蔵さん

4男の孫泰蔵さん

容姿が兄と父にそっくりな四男の泰蔵さん。

連続起業化で、現在はスタートアップ支援家としてベンチャー起業の育成に携わっています。

あのパズドラのガンホー創業者として有名で、ガンホー株の資産だけでも3000億以上。

兄に次ぐ、孫家の成功者となっています。

Yahooo!JAPANの立上げに係るなど、輝かしい経歴をお持ちです。

4男・泰蔵さんの奥さん

4男・の泰蔵さん奥さんは「恋のから騒ぎ」で有名になった方で、現在は声楽家「せいあ リー(seia Lee)」として活動されています。

現在は声楽家「せいあ リー(seia Lee)」として活動されています。

「ヴァチカン国際音楽祭2019」でローマ教皇代理ミサに招かれ歌唱するなど、ワールドワイドに活躍されています。

孫正義の奥さん・優美さん

旧姓・大野優美さん

一つ年上の奥様・優美さんとは、アメリカ留学中に知り合います。

地元が同じ福岡市の優美さんに正義青年が一目ぼれし、猛アタック。

お爺さんやお父さんと馴れ初めが似ていますね。

当初、東京で大きな病院を経営している優美さんの父は、韓国人との結婚に乗り気ではありませんでした。

医者に嫁がせて病院の跡取りにしたいとの思惑もあったようです。

その為、1979年のアメリカ留学中、孫さんが22歳の時にアメリカで2人だけで結婚式をすませています。

お子様

奥さん優美さんとの間に2人の娘さんがいます。

お子さんについては、あまり情報は出ていませんが、「あんぽん 孫正義伝(2012年発売)」によると、一人はご結婚されて、娘さん(おまごさん)がいるそうです。

また、ゴールドマン・サックスに勤められているとか。

2018年6月にソフトバンクの副社長に就任した佐護勝紀さんはゴールドマン・サックス出身です。

だからなんだと言う事はないのですが、2社の繋がりは強そうですね。

孫家の遺伝子

孫家の遺伝子

以上が孫一族のお話になります。

孫正義さんは、ソフトバンクCMの「白戸家」同様?複雑な家庭環境で育ってきました。

在日韓国人としての孫家の歴史を受け止め、引き継ぎつつ、実業家を志したのです。

この「堅気がいない」一族のバックボーンが、大成功をおさめた孫正義の底力になっているのではないでしょうか。

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