日本一の成功者、孫正義は日本一失敗をしています。
孫さんの13の失敗事例から、「失敗を成功の元」とするための向き合い方を学びましょう。

私の場合、4年に一度くらい困難な事態にぶちあたり、そうするとメディアからボコボコに叩かれる。
①創業初期、致命的な10億円の損失
②伝説の経営者、稲盛和夫に敗北
③代打社長の人選に失敗
④商品部のクーデーター
⑤SBI北尾氏との決別
⑥ナスダックジャパン創設
⑦テレビ朝日への投資
⑧ITバブル崩壊
⑨孫正義のIT投資の後悔
⑩光の道構想の屈辱
⑪アメリカ携帯事業の失敗
⑫自ら指名した後継者アローラとの決別
⑬WeWorkの泥沼化
①創業初期、致命的な10億円の損失

創業してすぐ1980年代前半、ソフトバンクは「Oh!PC」などのパソコン雑誌を手掛けていました。
孫さんは次の一手としてショッピング雑誌「TAG」を立ち上げます。
テレビCMなどで大々的に広告をうちますが、これが大失敗。
創業期のソフトバンクにとって致命的な10億円の借金を作ってしまいました。
自身が打ち出した戦略だけに、何とか復活の手を考えたいところですが、早々に撤退。
起死回生の一手としてLCRを考え付き、社運を賭けた勝負に出て、見事成功をおさめます。
LCR:孫正義が特許取得した、一番安い電話会社を選んで通話できるシステム。
②伝説の経営者、稲盛和夫に敗北

「NTTの独占に風穴を開け、日本の電話料金を安くする」
孫さんは、発明したLCRを自由化によって誕生したすべての新興電話会社に販売しようとしていました。
ところが、その一つKDDI(当時:第2電電)と独占販売の契約をしてしまいます。
伝説の経営者、稲盛和夫に「うちが50万個買うから、うちだけに売ってくれ」と押し切られてしまったのです。
当初の目的を思い出した孫さんは翌日に契約を撤回。
ビジネスマナー違反を犯してしまいます。
一度は契約金に目がくらみNTTを倒すという大義を忘れてしまった。
伝説の経営者を激怒させてしまった。
その後、他の電話会社への売り込みに成功し、LCRは成功しますが、大きな敗北感が孫正義を襲いました。
これで終わるわけにはいきません。
2001年、ソフトバンクは通信インフラ事業への参入発表
困難な道でしたが、巨大企業NTTを脅かし、日本のインターネット通信費用の値下げに一役買います。
今度は、「既得権益に打ち勝ち、日本に安いインフラを届ける」の大義をやり通したのです。
③代打社長の人選に失敗

1983年、孫さんは慢性肝炎で治療に専念せざる得ない状況となり、野村証券出身で27歳年上の大森康彦さんに代理の社長をお願いしました。
これが、結果的に失敗でした。
大森さんは、古巣の野村證券や大企業からスカウトした人材を優遇し、創業からソフトバンクを支えた社員を冷遇。
古参社員の不満は爆発、孫正義の攻めの姿勢で急成長していたソフトバンクの成長も伸び悩みを見せ始めました。
1986年、なんとか慢性肝炎から回復した孫会長は、大森社長の追放を決意。
取締役会で退任に追い込み、孫さんが社長に返り咲き、ソフトバンクを立て直しました。
④商品部のクーデーター
1986年、順調の業績を伸ばすソフトバンクに激震が走ります。
ソフトバンクの競争力の源泉である仕入れを担う商品部の社員が大量に辞め、新会社「ソフトウイング」を作ってしまったのです。
さらにコナミや三井物産などの大企業と提携する強力な連合軍となります。
戦力ダウンだけでなく、ノウハウを持った強力なライバルの誕生。
利益半減、ソフトバンクは窮地に陥ります。
緊急合宿会議を開き、そこで出た結論は「地道な業務改善」。
無駄なコスト削減、業務のシステム化による業務改善などをコツコツ実施していきました。
すぐに成果はでませんでしたが、1993年、ソフトバンクが順調に利益を上げるなか、ソフトウイングは経営悪化で別会社に買収されます。
ソフトバンクの勝利と言っていいでしょう。
この時の業務改善が、その後のバブル崩壊をソフトバンク乗り切れた要因の一つと言われています。
⑤SBI北尾氏との決別

孫さんより6つ年上の北尾氏。元々は野村證券の取締役としてソフトバンク担当だったのを孫さんが「北尾さんがくればソフトバンクは飛躍できる」と口説かれ入社しました。
店頭公開で4800億を調達し、Yahooやアリババへの投資資金を作るなど、1990年代後半からCMO(最高マーケティング責任者)としてソフトバンクの飛躍を支えました。
しかし、ブロードバンド事業参入による赤字体質についての意見の相違から決別。
徐々に独立色を強め、2006年12月、北尾氏は自ら育てたSBI証券などの金融事業をソフトバンクから完全に分離、独立してしまいます。
ブロードバンド事業や携帯事業と並び、金融事業も安定収入が得られる分野なだけに、この決別は大きな痛手です。
ただ、喧嘩別れというわけではなく、北尾氏との盟友関係は続いています。
その後は、「為替の神様」といわれた富士銀行(現・みずほ銀行)副頭取の笠井氏がソフトバンクの財務面を支えることになります。
⑥ナスダックジャパン創設

2000年6月、孫正義は「日本のベンチャー企業の育成」のため、証券市場ナスダック・ジャパンを設立します。
バックにはアメリカのナスダックがついており、大いに盛り上がりますがタイミングが最悪でした。
ITバブルの崩壊で市場は低迷、日本政府や証券業界の過度な規制もあり、わずか2年後の2002年、米ナスダックの撤退に伴い、ソフトバンクも撤退を決定します。
孫 「日本のシステムを変えようとした目標の半分は達成したとみている」
この時は、「本業である情報通信業に専念したい」と言っていましたが、ベンチャーへの育成は「世界中のベンチャー企業への投資」と形を変え、2017年のソフトバンク・ビジョン・ファンドに受け継がれています。
⑦テレビ朝日への投資
ソフトバンクは1996年にニューズ・コーポレーションと組み、テレビ朝日の株の21%を取得、筆頭株主となりました。
ところが、情報メディアへの参入は、孫さんが想定していた以上の反発がありました。
危険を野生の感で感じ取った孫さんはあっさり撤退を決め、取得金額で売却します。
この選択が正しかった事はホリエモンが証明しています。
⑧ITバブル崩壊
1990年代後半のソフトバンクはITバブルのど真ん中にいました。
連日株価は高騰、大株主の孫さんの資産は一日に一兆円増え、世界一のビル・ゲイツの資産を数日間上回ったこともあるそうです。
ほっといても資産がどんどん増えていく。
孫さんは逆に虚しさを覚え、事業への熱も冷めていきました。
ところがITバブルの崩壊で状況は一変します。
ソフトバンクの時価総額は20兆円から100分の1の2000億円にまで下がります。
数か月前までチヤホヤされていたのが、株価下落の責任から後ろ指をさされ、陰口をたたかれる始末。
そんな逆境に孫社長は逆に燃え上がります。
敵を巨漢NTTと定め、「日本に安いインターネットを!」を目標にソフトバンク史上最も困難な戦いに向かったのです。
⑨孫正義のIT投資の後悔

2001年、ソフトバンクは通信インフラ事業(ブロードバンド)への参入を電撃表明します。
今でこそ、ソフトバンクを支えるドル箱事業に成長していますが、参入当初は年間1000億円ほどを設備投資としてつぎ込んでいました。
そのお金を当時ITバブルの崩壊でディスカウントれていた世界のIT企業に投資していたらというのが、孫正義唯一の後悔だそうです。
そのラインナップは豪華でgoogle、Amazon、Facebook、中国の百度(バイドゥ)などが、数百億の出資で30%くらい取得可能だったというのです。
後から何とでも言える面はありますが、参入前の2000年に決めたアリババへの80億の投資は20兆円以上に化けていますので、あながち空想だけとは言えません。
その時のリベンジがソフトバンク・ビジョン・ファンドへの投資です。
規模も10兆円と100倍となり、「インターネット革命」への投資でなく「AI革命」への投資を掲げ、世界中のベンチャーへの種まきをしています。
⑩「光の道構想」の屈辱

光の道構想とは、2008年に総務省の原口一博総務大臣 (当時) の指示で「2015年までにブロードバンド利用率100%を目指す」というスローガンの元に打ち出された構想です。
検討委員にも選ばれた孫正義は政府の計画に対して、税金を投入しないで実現するプラン(B案)を打ち出し、政府案(A案)とどちらがいいですかと広告までうち、反論します。
夢のようなプランですが、同じく検討委員で経済ジャーナリストの佐々木俊尚などにその実現性を指摘され、政府の最終案でも却下されてしまいます。
孫 「まだ議論は終っていない」
当時、ソフトバンクの一員として、孫社長と業務にあった元ソフトバンクテレコム執行役員宮本正男さんは「要は孫正義氏の素案が社内で吟味されずに、当然あってしかるべき客観的反論のないまま提出されたことによる挫折ではなかろうか。孫正義氏のアイデアは社内の強烈な反論あってこそ世間で受け入れ可能な案となる。」と分析しと敗北を認めています。
この件に限らず、孫さんは、NTTや東京電力など半国有企業と呼ばれる企業に戦み、国のルールにも噛みついてきました。
その苦労から、古い体制を変えようとするよりも、新しい分野を開拓する方が未来があるとの結論に至ったようです。
孫氏:インターネットの群戦略をつくる上でのピースとして、コンテンツや証券のネット化が必要だったのです。でも身に染みて分かったのは、古い世界の会社を新しい時代のモノに塗り替えようとするのは非常に難しいということです。
お客さんやキャッシュフローが少なく、ブランドが構築されていなくても、時代の申し子のような企業に突っ込んでいった方がはるかにいいことが分かりました。革命を起こされる側より、起こす側の方がいいのです。
日経ビジネス:孫正義氏「逃したアマゾン。あのとき資金があれば…」
⑪アメリカ携帯事業の失敗
2013年、ソフトバンクは米携帯3位のスプリントを約1.8兆円で買収し、携帯事業のアメリカ進出に打って出ます。
4位のTモバイルUSと合併し、2位を狙う戦略でしたが、連邦通信委員会(FCC)が難色を示したことでとん挫、単独での戦いを余儀なくされます。
これが、負け戦の始まりでした。
元々下り坂だった経営の立て直しは難航し、契約者数ではTモバイルUSに抜かれて4位に転落。
2015年、立て直しに日本からエース級の人材を投入し、一定の成果を見せますが、苦戦を強いられていました。
孫 「もう、タダでもいいから持っていってくれる奴がいたら持ていってほしいくらいだ」
珍しく弱気な発言も見られました。
2020年4月にようやくTモバイルUSとの合併認められたところで、保有株式の約3分の2を売却すると発表します。
事実上の撤退宣言。
孫正義といえど海外でインフラ事業を軌道に乗せることは難しく、ビジョン・ファンドを始めとする「投資事業」に舵を切ったのでした。
⑫自ら指名した後継者との決別

孫正義は、自らの人生計画で「60代で後継者に事業を引き継ぐ」と公言していました。
その60代になる3年前の2014年9月、グーグルの副社長だったアローラ氏をスカウトし、後継者として指名します。
ところが、2016年6月アローラ氏はソフトバンクを去ります。
「本当にこれからゴールドラッシュが来るというときに、引退を考えること自体が早すぎたなと自分で思った」
10年は社長を辞めないと心変わりし、そんなに長くは待てないとアローラ氏がソフトバンクに見切りをつけたのでした。
この事件により後継者選びは全くの白紙に戻り、今も有力な後継者は決まっていません。
この問題だけは、学びもなく、次につながる内容とも言えず、ソフトバンクグループ最大の懸念事項と言えるでしょう。
そもそも孫正義の代わりなど誰にもできないのです。
⑬WeWorkの泥沼化

2020年3月期の決算で、ソフトバンクグループはビジョン・ファンドの1.9兆円のセグメント損益がでたことを発表しました。
主な下落の原因のひとつがWeWorkへの投資の失敗です。
創業者アダム・ニューマン氏の手腕を見込んで即断、その金額は膨れ上がっていき1兆円に迫りました。
しかし、、
ニューマン氏のずさんな経営実態が明らかになると、投資について懐疑的な声が高まり、新規株式公開(IPO)は頓挫。
ソフトバンクは2019年1月の時点で470億ドルと見積もっていた企業価値は、80億ドル(約8700億円)と8割も下回ることに。
2019年9月、ニューマン氏CEOを辞任、事実上の追放です。
2019年10月、引くに引けないソフトバンクははwework株の追加取得や融資などで約1兆円の支援を実施すると発表。
持ち株の比率は80%まで高まり、もはや投資というより子会社化のレベルとなっています。
孫社長の投資家としての目利き力を疑われ、投資のハズが責任を負って建て直しさせられる事態に追い込まれるという2重苦。
「WeWorkで投資の失敗をしたのは公に認めている。私がばかでした。私が失敗しました。私が見損ないました」と語っています。
数年後、いつも通り、「結果的にはプラスとなった」となるのか注目です。
2019年11月の2020年度3月期第2四半期の決算では次のように言っています。
「反省すれど萎縮せず」
孫正義の失敗学
1.潔く失敗を認める
2.ピンチの時ほど、反撃の一手を打つ
3.失敗から学び次に生かす
孫さんの失敗の対応の凄さはまず、「潔く失敗を認める」ところです。
ある程度の地位を得ると部下の手前なかなか失敗を認められないモノですが、孫さんはあっさり失敗を認め、次に切り替えます。

退却には攻撃の10倍の勇気がいる。退却の決断はトップしかできない。退却ではボコボコに非難される、やられる、恥ずかしい。これに耐える勇気がないと、もう戦えなくなる。
また、失敗により巨額損失や経営危機に陥っても、そんなときほど、まるでピンチを楽しむかのように冴えわたり、逆転の一手を打ってきています。

雨と晴れは必ずやって来る。大切なのはその両方を幸運だと捉える心構えだ。
ご紹介したように孫さんは結構失敗しています。
しかし誰よりも前向きに様々な事に挑戦してるから、たくさん失敗出来るのです。
エジソンの「失敗ではない、できない方法を発明したのだ」との有名な言葉がありますが、まさに孫さんも失敗を「貴重な経験」として次の挑戦に生かしています。

失敗は怖くない。年老いて失敗を恐れる己が怖い。
あるとき孫さんは部下から、育成のシステムとして3回まで失敗してもOKな「スリーチャンスシステム」を提案されたことがありました。
その時孫さんは「ダメだそれ。3社と限定するな。やる気があれば何度失敗しても問題ない」と返したそうです。
失敗が次の糧となる事を知っているからこその言葉でしょう。
たくさんの失敗こそが、孫正義の成功の秘訣なのかもしれません。