あのソフトバンクで社長解任騒動があったことを知っていますか。
ソフトバンク創業期は、ピンチの連続でした。
- ソフトバンク最大のタブー、社長解任事件
- 孫正義が余命5年の宣告を受ける
- 元アスキー社長・西和彦との3度にわたるライバル対決
- 裏切られ、従業員が集団離脱
- ITバブルが崩壊し、株価が100分の1に
8分ほどの内容です。ぜひ最後までお付き合いください。
ここに至るまで、孫青年が日本でソフトバンクを作ると決意するまでについては次の記事でまとめています。
余命5年宣告と一か八かの治療
孫正義は死にかけていました。
「長くても、あと5年の命」
1983年の春、25歳半ば、医者から死の宣告を受けます。
ソフトバンクを初めて1年半、創業時は3人だった社員も125人になり、いざこれからというときでした。
どうも体調がすぐれず「働きすぎかな」そんな風に考えていたところ、会社の健康診断で「要再検査」の通知を受けます。
再検査の結果は最悪でした。慢性肝炎を患っていたのです。
当時、慢性肝炎は不治の病でした。
生まれたばかりの子どももいるのに、俺にはまだまだやりたいことがあるのに、なんでこの俺なんだ
孫青年は病院のベッドの上で泣きじゃくります。
治療を始めますが病気は手ごわく一進一退、満足に働けない期間は2年間以上も続きます。
安静にしていなくてはいけないのに、会社の重要な会議には無理して顔を出し、重要な記者会見にはそっとベッドを抜すなど、じっとしていられません。
少し良くなっても無理してしまうので、また悪化してしまうのです。
この間ソフトバンクは悪いことが重なります。
- 順調に推移していた成長がストップ
- 社長の代打を頼んだ「大森康彦」が創業メンバを次々追放し、会社は分裂の危機
- ライバルのアスキー社長・西和彦西の度重なるプレッシャー
満身創痍の孫青年に父親から「新しい治療を受けて見ないか」と提案がありました。
熊井先生という慢性肝炎に画期的な治療をしている先生がいるというのです。
その治療法は、慢性肝炎を一度急性に悪化させ、そこから一気に直してしまうという「賭け」のような方法でした。
医学界でも賛否流論の治療法。
孫青年はすがるような思いで熊井先生に会いに行きます。
「成功確率は7割」
熊井先生からはそう言われます、
「このままでは会社も危ない、もう、賭けるしかない」
孫青年は決心します。
治療が始まり2か月後、ウィイルスの状況を調べます。
これで変化がなければ失敗です。
結果はどうだったのでしょうか。
・
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あれほど苦しめられたウィルスが減ってしました。
孫正義は賭けに勝ったのです。
治療開始後4か月でウィルスは消滅しました。
こうして、3年もの間苦しめられた病気を克服した孫正義は、課題山積みのソフトバンクの再建に乗り出します。
「まず何から手を付けるか」
孫青年は日本で起業してからの経緯を思い起こします。
日本ソフトバンク設立
アメリカでの成功を捨て、母親との約束通り日本に戻ってきた、孫正義。
1980年、会社を設立するために福岡市博多区雑餉隈に事務所を構えます。
「さて、何から始めるか」
コンピューター関係の事業をすることは決まっていますが、具体的に何をするか何も決まっていませんでした。
「脳ちぎれるほど考え」気付けば1年が経過、そうして選んだのがソフトウェアの流通業でした。
ソフトウェアの流通をやるなら、九州でやっていたのではダメだ
学生時代の孫の発明に1億円を出してくれた、大恩人の佐々木正(シャープ副社長)のアドバイスを受けた孫さんは、東京の麹町に「日本ソフトバンク」を設立します。
いきなりの大勝負
「まず、日本ソフトバンクを世間に知らしめる必要がある」
孫正義はいきなり勝負に出ます。
8割の資金を使って、大阪のエレクトロニクスショーに出展することにしたのです。
この時の日本ソフトバンクの資金は1000万円、そのうち800万円を使い、パナソニックなどの大企業と比べても見劣りしない立派なブースを出展します。
ブースは大盛況でした、大手電機メーカーと比べても明らかにソフトバンクのブースのほうが賑わっていました。
ところが、ブースに招待したソフト業者と顧客が直接商談を始めてしまい、中間業者であるソフトバンクは置いてけぼり。
めだった商談が取れずに8割の資金を投じ、会社の命運を賭けた勝負は大失敗。
いきなり窮地に立たされます。
上新電機との独占契約
しかし、一本の電話からソフトバンクの逆転劇が始まります。
大阪のエレクトロニクスショーで知り合った客経由で、上新電機(現店舗名Joshin)と商談の機会を得たのです。
全国展開はまだでしたが当時でも大阪で知らないものはいない大企業である上新電機。
孫社長の熱意が伝たわり、取引をしてもらえることになりました。
ところがそれに満足しない孫さんはとんでもないことを口にします。
「ソフトバンクの独占契約でやらせてください」
なんと他の業者は使わないで、実績0のソフトバンクと独占で商売をしろというのです。
孫さんに可能性を感じた上新電機社長はある条件を提示します。
「いいだろう、ただし一か月で日本全国からあらゆるソフトを集めてくれ」
孫はソフト集めに奔走します。
ハドソンの工藤浩さん
「ソフトバンクの独占契約でやらせてください」
上新電機からの条件を満たすため、孫は後に「桃太郎電鉄」「ボンバーマン」などで有名となるハドソンでも同じ事を言いました。
市場規模自体がそんなに大きくありませんでしたが、ハドソンは当時のソフト会社の中で断トツ最大手でした。
「こいつは何を言っているんだ?」
自分に都合のいい要求をする孫にハドソンの担当の工藤浩さんは呆れます。
ところが孫の巧みな話術にいつの間にか「一緒にやってみようかな」と思わされてしまいます。
「ただし条件がある」ここでも条件を突き付けられます。
預託金として3000万円を用意すること
さすがに孫正義も困り果てました、1000万円のうち、800万円を大阪エレクトニクスショーへの出店に使ってしまい、そんな金はどこにもありません。
「気は進まないが他に手はない」
親戚中に頼み込み、なんとか3000万円をかき集めます。
独占契約の話は順調に進み、ハドソンと流通で協力していた「電波新聞社」の幹部に孫を紹介した時の事でした。
孫正義との提携が面白くない幹部は暴言を吐きます。
だいたい、なんで朝鮮人と付き合わないといけないんだ
それがなんだ!朝鮮人だろうが韓国人だろうが、そんなの関係ないでしょう!そんな言い方ないだろ!!!
これでハドソンは貴重な流通ルートを失う事態に。工藤さんの男気を感じるエピソードですが続きがあります。
流通ルートを失い、しょんぼりしている工藤さんに孫さんはこう返したのです。
「工藤さん、大丈夫ですよ。ウチで雑誌やるから」
工藤さんお男気に感動した面もあったのでしょう、雑誌業界への参入を決めてしてしまうのでした。
このようにして、ポットでの24歳の若者が上新電機とハドソンという2つの業界最大手と独占契約を結んでしまいます。
その後、相変わらず資金繰りに苦しみますが、シャープの佐々木副社長が、自分の退職金を担保としてくれるなど、たくさんの恩人に支えられ、順調に業績を伸ばしていきました。
ソフトバンク最大のタブー、社長解任事件
代理社長
業務も軌道にのり、絶好調のソフトバンクでしたが、一転どん底に突き落とされます。
1983年、社長の孫さんが当時は不治の病だった慢性肝炎で余命5年の宣告を受けてしまうのです。
高校時代に父親が倒れたのも肝臓が原因でした。
即入院で満足に業務ができません。
それでも心配で度々病院を抜け出していましたが、このままというわけにはいかず、代理の社長をお願いすることになります。
佐々木正さんに紹介されたのは孫より27歳も年上の大森康彦さんでした。
野村証券のエリートコースを歩み100社以上を上場させた実績を持ち、現在は日本警備保障に転じている、大物間漂わせる人物です。
日本ソフトバンクをお願いします。
ただ、ソフトバンクは大企業のエリートコースを歩んできた大森さんから見るとまだまだ小さな会社です。
周りも「受けないだろう」と思っていましたが、予想に反して、大森さんはソフトバンクの社長の話を受けます。
「よし、これで治療に専念できる」
孫さんは喜びますが、結果としてこの大森氏の社長就任はソフトバンクに暗い影を落とすこととなります。
すぐに2人の関係には亀裂が入り、孫さんは病室から圧倒的に不利な戦いを強いられることになるのです。
大森康彦との対決
病院にお見舞いに来る社員からは、新社長・大森の悪口しか聞こえてきませんでした。
- 銀座で豪遊など過剰な交際費の使用
- 野村證券の子飼いと大企業からスカウトした人材を優遇、創業からの古参の社員には冷たい
- 創業期からソフトバンクを支えた社員が次々に会社を去る
なにより急成長していたソフトバンクの業績が伸び悩み始めていました。
そんな状況でも自分は何もできない、絶望的な状況でしたが、一筋の光明がさします。
新たな治療法にチャレンジしたところ、何をしてもダメだった病状に回復の兆しが見えたのです。
治療を開始して4か月後、完全に回復します。
奇跡的な復帰をはたした孫正義は、1年半会社の状況を確認。
冷静に見てみても、大森流のドライなやり方ではベンチャーであるソフトバンクには合わないと結論付けます。
「会社を立て直すためには自分が陣頭指揮を取るしかない!」
1986年、孫正義は大森氏と決別する決意を固めます。
佐々木氏を介して社長交代を申し出ました。
大森氏は「あんな若い人では社長は無理です」と断固拒否。
そこで臨時の取締役会役員に大森氏の解任動議をおこします。
「役員に40歳での定年制度を導入する」という奇策でした。
そんなことがまかり通るか!
大森氏は反発しますが、他の役員には事前に根回し済みで多数を確保、導入は決定されます。
こうして実権のない会長職に追いやられた大森氏は会社を去ることになったのです。
こののち、2人の人生はくっきり明暗が分かれます。
この後、どんどん会社がステップアップしていき光輝いていく孫さん。
対して、大森氏はインターネット事業のケイネットの社長に就任するも倒産。
その後、医療情報を提供するアンチエイジンググループという会社の社長となりましたが、こちらも倒産しています。
天才・西和彦と神童・孫正義
西和彦さんは『週刊アスキー』創刊したことや米マイクロソフトの副社長に就任したことなどで注目を集め、当時のコンピューター業界では「天才・西和彦」と言われていました。
頭角を現してきた孫さんは西さんの天才に対して「神童・孫正義」と呼ばれます。
ライバル関係にあった2人は何度も対峙することになります。
ソフトバンクの広告締め出し
業界最大手の上新電機とハドソンと独占契約を結んでいることに危機感を覚えた西さんは対抗策を考えだします。
わけのわからない人間に、市場を独占させるわけにはいかない
『週刊アスキー』と他の主要2誌とが結託し、ソフトバンクの広告を締め出しにかかったのです。
当時コンピュータ雑誌は少なく効果は絶大でした。
すぐさま孫さんは反撃します。
「ソフトバンクの広告を載せる雑誌がないなら、自分で作ればいい」
ハドソンの工藤さんとの一件でも自前メディアの必要性を感じていた孫さんは、自分でパソコン雑誌を創刊して広告媒体を確保。
このようにして西と孫の争いは全面対決に発展していきます。
10日間戦争
1983年6月16日、西和彦は経団連会館で記者会見を行い、「メーカーと共同でソフトの規格をマイクロソフトのMSXに統一する」と発表します。
会見には、あのビルゲイツやソニー、NEC、パナソニックなど名だたる企業の幹部が参加していました。
やられた!
孫もソフト企画の統一を考えてはいましたが、入院中で動けず、完全に出遅れました。
規格には使用料がかかり、西とビルゲイツに流通の根幹を抑えられてしまう事になります。
参加する企業の顔ぶれを見るともう挽回は難しいとさえ思えます。
「だが、ここで引いたら負けだ」
5日後の6月21日、孫は病院を抜け出して記者会見を開きます。
「パソコンの黎明期に使用料をとり、流通を妨げるのは業界の為にならない」
大義を掲げ、真向から反対したのです。
その後、間を取り持ってくれた大手メーカー幹部のおかげもあり「使用料はとらない、仕様は全て公開する」と妥協点で決着。
6月26日、10日間にわたる孫と西野の戦争は終結します。
孫さんはこの期間、闘病中であり非常に苦しい戦いでした。
いったん合意した2人でしたが、火種はのこりました。
社員の大量離脱事件
1986年、ようやく孫さんが社長に復帰したソフトバンクに大事件がおきます。
仕入れ部門の社員が大量に辞め、新会社「ソフトウイング」を作ったのです。
仕入れ部門は、当時のソフトバンクの競争力の源泉です。
当然ノウハウはそのまま新会社に移行されますので、ソフトバンクの大幅な戦力ダウンに留まらず、いきなり強力なライバルが出現したことになります。
主導したのは誰だ!
孫社長は気色ばみますが、その名前を聞き、唖然とします。
黒幕は、天才・西和彦でした。
ソフトバンクを裏切った幹部を中心に、アスキー、コナミ、三井物産などが協力する強烈な布陣。
ソフトバンクは窮地に追いやられます、取引先が次々に奪われ、利益は一気に半減しました。
孫は幹部を招集して2泊3日の合宿会議を開くなど、対策を練ります。
「10年以内に造反者たちを一掃してやる」
怒りに燃え、考えに考え、出した結論。
それは、経営の基本に立ち返ることでした。
奇策はなく、日次管理で数字を見てコツコツ対策していく、当時は紙が主流でしたが専用のシステムも開発しました。
すぐには成果は出ず、ソフトウイングとの厳しい戦いは続きましたが、徐々にソフトバンクが優勢になっていきます。
そして1993年、ソフトウイングは経営が悪化し、別会社に買収されます。
言葉通り、10年以内にライバルに勝ったと言えるでしょう。
その後、西和彦さんはバブル崩壊でアスキーが経営破綻するなど、暗転し、再びソフトバンクに挑むことはありませんでした。
ソフトバンクの躍進
NTTとの前哨戦
ある時、知り合いの紹介で情報通信企業フォーバル社長の大久保秀夫氏と出会います。
2人は意気投合、めざしたのが
「NTTにひと泡吹かせてやる」
当時、NTT(その時の名前は電電公社)の独占だった電話通信業が民間に開放され、KDDI(その時の名前は第二電電でDDIを経てKDDI))など3社が名乗りを上げていました。
しかし、ほぼ政府の機関であるNTTへの忖度と電話番号の前に4けたの番号(0077)を付ける不便さなどもあり、苦戦を強いられていました。
「国民に安い電話を届ける!」
使命に燃えた2人は忙しい仕事の合間を縫って話し合います。
そうして、1987年に孫と大久保は、電話番号を入れるだけで、安い電話会社に自動的に振り分けで電話してくれる装置(NCC-BOX)を開発します。
さらに、実績のない機械を売り込むための秘策として、孫正義得意の無料戦略が炸裂します。
全国に無料で配布し、KDDIなどの新電電から使用料(ロイヤリティ)を得るビジネスモデルで展開、莫大な利益を得ることに成功します。
資金調達と投資
1990年には、世界を目指すため「日本ソフトバンク」を「ソフトバンクに社名変更」。
ここから、ソフトバンクは急速に規模を拡大して行きます。
1994年にソフトバンクの株式を店頭公開、1998年1月16日には東京証券取引所第1部に上場し5000億近い資金を得ると、M&AやIT関連企業への投資などを積極的に行う様になります。
失敗も多かったのですが、ヤフーやアリババなど後に莫大な利益となり、様々な挑戦の原資となる、素晴らしい投資も含まれていました。
特に、1996年に米ヤフーに投資した縁で始めたヤフー(Yahoo!JAPAN)は、インターネットのポータルサイトを抑えるこちにより、様々にビジネス展開を有利に運べ、さらに毎年順調に利益を上げてくれる孝行息子に育ちました。
中国アリババとの提携
先にも述べましたが、この頃、孫正義はアリババのジャック・マーと出会い、投資を決めています。
実は、ジャック・マーは孫に会う前にアリババ立ち上げに必要な資金は集まってしまっていました。
ただ、アナリストが強く勧めるので会うだけ会うことに、ところが孫さんはジャック・マーに会うなりこう言います。
「4000万ドル出資したい」
会って5分で、ジャック・マーの醸し出す雰囲気に惚れこんでしまったのでした。
結局2000万ドル(20億)の出資することに落ち着き、お互いの会社の社外取締役を務めるなど、ソフトバンクとアリババの提携は現在に至るまで続いています。
20億の投資は10兆円を超える含み益となっています。
危なかったテレビ業界への参入
1996年、「世界のメディア王」と称される世紀の実業家ルパート・マードックとタッグを組み、テレビ朝日の株式21%を買い取り、事実上の筆頭株主となりました。
情報メディアとしてNO1の影響力を誇るテレビとインターネットとの相乗効果を狙ったものでした。
ところが、テレビ朝日や世間の猛烈な逆風を感じ取り、さっと撤退します。
「ホリエモン VS フジテレビ | ニッポン放送買収!村上世彰の罠」で詳しく書いていますが、ホリエモンは2004年にフジテレビを買収しようとし、メディアの恨みをかっており、後の逮捕の遠因になっていると言われています。
孫さんもここで無理をしていたら危なかったかもしれません。
虎の尾を踏まない手腕はさすがです。
テレビのだけでなく、ホリエモンと孫正義は奇妙な『縁』があります。
ITバブルと新たなる挑戦
1995年発売にWindows95の発売あたりから、アメリカ初の後にITバブルと呼ばれるIT企業への投資が加速して行きます。
当然、日本のトップIT企業であるソフトバンクの株価もうなぎ上り。
1999年には日本のベンチャーが育たないことから、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンクが共同出資し、ナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。
孫正義の名は、日本のIT業界のリーダーとして轟き、世間からは圧倒的成功者そして持てはやされます。
当時ソフトバンクの筆頭株主である孫社長の資産は、1週間ごとに一兆円増えて、3日間だけあのビルゲイツを超えたのだとか。
ソフトバンクの時価総額も20兆円まで膨らんでいました。
しかし、連邦準備制度理事会の米ドル利上げを契機に、株価は急速に崩壊、2000年12月バブルは弾けます。
関連記事 ITバブル | 過去から学び第2のITバブルに備える
孫正義さんは一転、株主などの世間から責められます。
20兆円だった時価総額は、100分の1の2000億円まで下がってしまいました。
ところが、そんな低迷期に孫正義は、人生最大の勝負にでるのです。
ソフトバンクはそこで地獄を味わうこととなります。
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あのホリエモンもその例外ではありませんでした。
サーバーエージェントの藤田晋さんは、村上世彰の巧妙な罠にハマりさらに窮地に陥っています。