皆さん孫正義さんがどのように「ソフトバンク」を築きあげたかご存じでしょうか。
この記事は、ブロードバンド参入、球団買収、携帯事業参入、大型M&Aなど世間を驚かせ続ける「ソフトバンク」が誕生するまでをまとめています。

髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのである
- 孫正義の結婚エピソードと奥さんと子供
- 在日韓国人だっていうけど、どんな少年時代だったの
- 両親はどんな人、弟はガンホーの社長なの?
- 高校1年生が3週間でアメリカの大学試験に合格したって本当?
- どうやってソフトバンクを創業したのか
そんな疑問が解決します。8分ほどの内容です、ぜひ最後までお付き合いください。
はじめに、孫正義の結婚

「いったい、いつになったら来るの?」
結婚式当日、新郎の正義青年は遅刻します。
1979年のアメリカ留学中、22歳になった正義青年はともにバークレー校で学んでいる日本人の大野優美さんと結婚することになりました。
地元が同じ福岡市の優美さんに正義青年が一目ぼれし、猛アタックしたのでした。
正義さんの親父も母親に一目ぼれし、家に通いつめたとされていますから遺伝ですね。
東京で大きな病院を経営している優美さんの父は、韓国人との結婚に乗り気ではありませんでしたが、何とか結婚までこぎつけました。
そのやっとたどり着いた結婚の手続きの日。孫青年はいつまでたっても待ち合わせ場所の裁判所にあらわれません。
当時、学生ながら「音声装置付き電子翻訳機」のビジネスを立ち上げに夢中になっており、すっかり忘れてしまっていたのでした。
結局3時間遅刻、結婚は翌週に延期となってしまいます。
一週間後、なんとまた遅刻。
それでも何とか頼み込み、手続きをしてもらえることに。
ガウンを着た判事の前で、誓約書に記入していると、問いかけられます。
「立会人は?」
結婚に必要な2人の立会人の準備をすっかり忘れていました。
慌てた正義青年は、近くにいたガードマンと受付の女性に頼み込んで立会人になってもらい、ようやく結婚できたのでした。
参考:とことん―孫正義物語
日本への帰化
その後、日本に帰国、事業をやるにあたり、通名「安本」ではなく本名の「孫」を名乗ることに決めます。
親や親戚からは、猛反対されました。
日常生活での差別は減りましたが「銀行は金を貸してくれなくなる」など、まだまだ差別は残っていたからです。
「ハードルは十倍あがる、なぜわざわざ困難な道を行くのか」
「お前は青い」
そう言われましたが、聞き入れません。
正義青年には信念がありました。

「私は、在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。
それを自分が事業で成功して、証明しなきゃならないと思っている。
その自分が本名を隠してこそこそやったんじゃ意味がない。」
名前は、孫を名乗りますが、事業や優美さんのおなかの子供の手続きをスムーズに進めるため、日本国籍を取ることを決意します。
ところがここでも問題が、先例のない苗字「孫」では帰化できないというのです。

帰化したいなら、日本にすでにある苗字に改名してください

「孫」じゃなきゃ意味がないんだ
その後、何度も申請しますが、そのたびに却下されます。
考えに考えた正義さんはウルトラCを思いつきます。
韓国では奥さんは旧姓を名乗り、優美さんは「大野」のままです。
まず、日本人の妻の優美さんに、「大野」から「孫」に改名してもらい、前例を作ったのです。
再度、役所に行き調べてもらいます。

どうでした、日本人で孫はいましたか

ひとりいました....あなたの奥さんです
結婚して12年後の1990年、ようやく「孫正義」の名前での帰化に成功したのでした。
このように、孫正義さんは、「高い志」だけでなく、それを「必ずやり抜く実行力」を持ち合わせた、稀有な存在です。
現在の孫正義
その後、奥さん優美さんとの間に2人の娘さんが誕生しています。
お子さんについては、あまり情報は出ていませんが、「あんぽん 孫正義伝(2012年発売)」によると、一人はご結婚されて、娘さん(おまごさん)がいるそうです。
この時点では全くの無名の青年は、2020年には6兆円の売り上げを誇る大企業ソフトバンクの会長兼社長で、福岡ソフトバンクホークスのオーナー、個人資産は2兆4000億円(フォーブス長者番付で世界56位)で日本2位の大金持ちへと昇りつめます。
いったいどのような生い立ちだったのでしょうか。
孫正義の幼少期

1957年8月11日、在日韓国人実業家の二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に生まれます。
いわゆる通名は「安本正義」。
4人兄弟で末っ子の泰藏さんも優秀で、パズドラのガンホーを創業しています。
家は「無番地」と呼ばれれる、豚や羊と一緒に生活する非常に貧しく不衛生な場所でした。
小さいころから父親に「天才」と目を掛けられ、商売が軌道に乗ると孫少年のために教育に適した場所として福岡市に引っ越しするほどでした。
孫少年のあふれる才能は、幼少期からエピソードを残しています。
父の喫茶店のコンサル
正義が12歳の時、父が小さな喫茶店をオープンしました。
ところが駅から遠く、寂しいところでなかなか軌道にのりません。
そこで藁にもすがる思いで、息子に意見を求めたところ「コーヒー無料券をくばったらどうか」と提案
「無料にしたらもうけが出なくなるじゃないか」と父が言うと

店に来ればお客はコーヒー以外も注文してくれるそこで儲ければいい
半信半疑だった父だが言うとおりにしてみるとこれが大ヒット。
店は次第に繁盛して、数年後にはかなりの高値で売却できたそうです。
父が言った言葉が「正義、お前は天才やぞ!」
孫正義の父親

父・三憲さんも優秀なビジネスマンです。
「無番地」の貧しい生活から自らの力で密造酒製造販売と消費者金融・パチンコ業と商売を拡大。
正義少年が中学になることには福岡市に引っ越し、裕福な暮らしができるほど成功しています。
「あんぽん 孫正義伝」にはその商才を示す出来事がつづられています。
孫正義の無料戦略のルーツ

三憲さんは中学を出てすぐ、ヤミ焼酎を売り始めます。
ただ、家の近くは同業者が固定客をがっちりつかんで付け入るスキがありません。
その為、自転車の荷台に密造酒が入った一斗缶を載せて、山を越え、1日がかりで誰も知る人がいない遠くまで売りに出ていかなければいけませんでした。
ただ、初めて見た青年のヤミ焼酎など誰も買ってくれません、当時は「ヤミの焼酎にはメチルアルコールが入っているから目がつぶれるなど」など言われていて、客は敬遠するのです。
そこで三憲さん中学を出たばかりながら、自分がその焼酎を飲んで見せます。
この商品は大丈夫なんだと証明するために。
さらに「僕も飲みますから、おじさん一緒に飲みましょうよ」と誘い、「試飲」サービスまで組み合わせます。
次第に信用を勝ち取った三憲さんは顧客をどんどん広げ、焼酎が売れるだけでなく、仲良くなった人に「焼酎はここに置いておけ、代わりに売っといてやるよ」と商売も広がっていったのです。
孫正義さんは、このエピソードを、ソフトバンクの携帯キャンペーン「ただとも」のルーツだと話しています。
孫家の天才教育
三憲さんは、子供の意見でも真剣に聞き、いいと思ったらすぐ実行するような人でした。
少しでも褒めるところを見つけると、大げさにほめちぎる。ほめてほめてほめまくったそうです。
正義さんは次のように振り返っています。

最初は恥ずかしいけど、なんだか自分が本当の天才のように思えてきた
絵が好きだった末っ子の泰藏さん(のちにガンホー創業)の水彩画を額に入れ数十枚も飾り「ピカソよりうまい!大胆さ、細やかさ、深さ、どれをとっても天才だ!」とほめちぎっていたそうです。
4人兄弟から2人も大実業家が産まれていますから、このとことん信じて褒める教育は侮れませんね。
このことは、現代の魔法使いと呼ばれる天才・落合陽一さんを育てた教育にも通ずるところがあります。
孫正義の家族
孫一族は在日韓国人として波乱万丈の歴史の末に、現在の成功を手に入れています。
祖父:ボロ船で日本に密航、沈没寸前のところを漁船に助けられる
祖母:狭いバラックで豚を育てていた
父親:中学から働き、密造酒作り、金貸し、パチンコ屋と起業
母親:美空ひばり似の美人
弟 :パズドラのガンホー創業者、資産3000億円以上
弟嫁:「恋のから騒ぎ」一期生、声楽家「せいあ リー
奥様 :東京の大病院の経営者の娘
娘 :ゴールドマン・サックス勤務
ご家族については別記事でまとめていますので興味のある方はそちらをチェックしてみてください。
孫正義の学生時代

福岡市に引っ越しし、福岡市立上南中学校という福岡市でもトップクラスの進学校に通うことになった正義少年。
最初は勉強についていけませんでしたが、学校の先生になる夢のために猛勉強し、トップクラスの成績を維持していました。
ところがある時、父親から「先生にはなれない」と言われます。
当時、日本の国籍を持つ人以外は、公立高校の先生や公務員になれなかったのです。
正義少年は「帰化する」とまで言い出しますが、祖母の大反対にあいます。
泣く泣く夢をあきらめ、勉強する意欲も失ってしまいました。
成績も下位クラスまで下がってしまいます。
孫一家の大事件
そんな中、孫家を揺るがす大事件がおきます。
一家の大黒柱の父親が血を吐いて倒れたのです。
病状は深刻で、入院は長引き、入院費はかさみました。
1歳上の兄は長男の責任を果たそうと高校を中退し働き始め、母と一緒に家族の生計を支え、父の病院費を払いました。
一家の危機にヤサグレていた正義少年は目を覚まします。
家族のために何ができるか、考えに考えた結果ある答えを導き出します。

日本一の事業家になる!
今は兄に家計をお願いし、自分は長いスパンで家族を支えるために、自分は会社を興して日本で一番の実業家になる。
そう思い立った正義少年は、九州で一番いい高校「久留米大学附設」にいくため猛勉強し、見事合格しました。
アメリカへの短期留学
高校生になった孫青年は、「実業家になるかには世界を見ておこう」と夏休みを利用してアメリカのカリフォルニア大学バークレー校への4週間の英語研修ツアーに参加します。
バークレー校で正義青年は驚きます。
そこではアフリカ系、アジア系、ヨーロッパ系、様々な目や肌の色の学生たちが、国籍も年齢も関係なく、自由に語り合っていたのです。
「ここでなら実力だけで勝負できる」そう考えた正義青年は、日本に戻ると、驚きの宣言をします。

「高校を辞めて、アメリカに行く」
やっと難関校に合格したのに、辞めるというのです。
これには母や兄、親戚中から大反対をうけます。
「せめて高校を卒業してからでいいだろう」
「病気の父を置いていくのか」
「お前は冷たい奴だ、家族が一番苦しい、こんな時に自分勝手な夢でアメリカに行くなんて」
しかし、正義青年の決心が揺らぐことはありませんでした。
日本一の実業家になるためにはこの方法が最短だと考えたからです。
1分1秒でも早く一人前になり家計を助けたい、高校の3年間も待っていられない。
父だけは「行ってこい、お前は自分のやりたいようにやってこい、俺は絶対に死なん」と励ましてくれました。
母親は泣きましたが「僕は絶対日本に戻ってくる」と約束し、アメリカに飛びたちます。
アメリカ留学

アメリカでの高校生活
日本の高校1年はアメリカのハイスクールの2年にあたります。
アメリカ、サンフランシスコのセラモンテ・ハイスクールの2年生に編入した、正義青年は日本語を禁止し、英語の習得に励みます。
周りのアメリカの高校生たちはサークル活動にパーティと高校生活を満喫していましたが、正義青年にはあまりにものんびりしているように見えました。
「こうしている間も母と兄は自分の学費のために働いている」と考えると1分1秒も無駄にできません。
どうすればいいのか、正義青年は、飛び級に活路を見出します。
「アメリカには飛び級という制度がある、年齢に関係なく進学できる。これを利用しよう」
なんと、いきなり校長先生に会いに行き、今すぐ自分を3年生にするように直談判します。
留学の不安などを相談されると思っていた校長は驚きますが、正義青年はアメリカに来た理由などを熱意をもって説得し、結局この要求は認められます。

いいだろう、明日から3年生だ、ただ、ついてこれるかは自分次第だ
こうして正義青年は1週間で3年生になります。
正義青年は、食事中もトイレでも教科書を話さないほど猛勉強をします。
ひたすら勉強し、先生に食いつくように授業を受け、熱心に質問しました。
その噂を聞き、姿勢に感銘を受けた校長先生はさらに4年生に飛び級させることを決定します。

普通こんな飛び級はないことだ、頑張りたまえ
そう話す校長に、正義青年は言います。
「ありがとうございます。でも、もう一つお願いがあります。」

ん?なんだね。

「大学の検定試験を受けさせてください!」
なんと入学数週間でもう卒業しようとしているです。
ただ、その試験は厳しく、数学・物理・化学・歴史・地理・英語の六科目すべてに合格しなければなりませんでした。
「私は1%でも可能性があるならそれに賭けたい、1分1秒でも無駄にできない!」
熱意に負けた校長先生はついに試験を許可したのでした。
さらに猛勉強を重ねた正義青年は、試験の日を迎えます。
伝説の大学検定試験
カリフォルニア州での大学の検定試験の日、正義青年は配られた分厚い紙の束を見て絶句します。
全て問題用紙だったのです。
英語がそれほど上達していない正義青年にはとても手に負えない量でした。
「ここであきらめたら1年後だ」
立ち上がり試験管を呼んだ正義青年はとんでもない提案をします。

私はアメリカに来て間もない、英語力も十分ではない。ただ、日本語ならこの問題を必ず解ける

what?

だから、辞書の貸し出しと時間延長を許可してほしい
なんとまあ大胆な提案でしょうか。試験中に辞書を使い、さらに時間を伸ばせと言うのです。
当然認められませんが、正義青年はあきらめずに食い下がります。
持て余した試験管は教育委員会に相談。
教育委員会がまたその上に相談。
続けているうちに、最終的に正義青年は州知事と直接交渉していました。
そして「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」を認めてもらってしまったのです。
しかも時間延長の期限を決めなかったのを利用して、3日間の試験中、毎日夜遅くまで一人だけ試験を延長し、問題を解いていきます。
毎晩へとへとになりながら試験終了。
なんと合格してしまいます。
こうして正義青年はわずか3週間でアメリカの高校生活を終え、大学生になったのです。
大学生時代
1975年9月、ホーリーネームズカレッジの大学生になった正義青年は猛勉強を続け、大学3年生で、高校のとき語学留学した名門バークレー校に編入します。
正義青年は「人生五十ヵ年計画」を立てます。
20代:名乗りを上げる
30代:軍資金を貯める
40代:ひと勝負かける
50代:事業を完成させる
60代:次の世代に事業を継承する
ただ、そもそも何で名を挙げるのか、何をすればいいのか。
そんなある日、孫青年はスーパーマーケットのカウンター何気なく見ていた雑誌のコンピューターチップの写真に目を奪われます。
人差し指ほどのチップにコンピューターの頭脳が入ってしまというのです。
この技術は世界を変えると直感し、涙が止まりませんでした。
「これが藤田田さんがいっていたコンピューターの未来なんだ」
感動した正義青年は、コンピューターで日本一の実業家になる決心をします。
アメリカ留学前に著名実業家の藤田田さんからアドバイスを受けていたのです。
藤田田との縁

アメリカ留学前、藤田田さんの著書「ユダヤの商法」にものすごい感銘を受けた孫青年は「藤田田さんに会いこれからの指針について教えを受けよう」と思い立ちます。
藤田田さんは「日本マクドナルド」や「日本トイザらス」を創業した偉大な実業家です。
福岡から藤田さんのオフィスに電話しますが、何度かけても取り次いでもらえません。
いちいちファンに会っていたらキリがありませんから当然と言えば当然です。
ただ、どうしても会いたい孫青年は、なんとアポなしで福岡から飛行機に乗り、東京まで会いに行きます。
「3分でもいい、話ができなくてもいい、目も合わさない、ただ一目お会いしたい」
孫青年の熱意にほだされた藤田田さんは面会を許可します。
「私はアメリカに学びに行きます、これからは何を学べばいいでしょうか」孫青年は率直に問いかけます。
そうすると、マクドナルトやトイザらスを創業した人物とは思えない意外な言葉が返ってきます。

これからは、コンピュータービジネスの時代だ
時代の先を読む、偉大な実業家のアドバイスを胸にアメリカに飛び立ったのでした。
藤田田さんとの縁はその後も続きます。
ソフトバンクで成功後、孫正義さんは、お礼を言うために藤田田さんを食事に招待しました。
「あの時の高校生が孫正義だったか」と驚き、成功したお祝いに自社のパソコン300台を注文したそうです。
さらに、1999年から2001年までソフトバンクの社外取締役に就任してもらっています。
暴走しがちな自分のお目付け役を尊敬する経営者にお願いしたのでした。
お亡くなりになったのが2004年ですので、直前までソフトバンクと関わっていたことになります。
社外取締役を退任するとき、後任のユニクロ創業社長の柳井さんに「ハンバーガーの無料券3枚」を渡したとの逸話が伝えられています。
このように無名の青年が、著名経営者に会いに行き、縁ができるという漫画のようなストーリーが展開していきます。
20代で名乗りをあげる
20代で名乗りをあげるため、そろそろビジネスの種を見つけたい正義青年は、1日1個勉強の合間に1日5分だけ発明の事を考え、アイディアをノートに書き留めていきました。
そうしてできた、250個の中から日本語で話しかければ英語やドイツ語、フランス語などで翻訳した言葉を返してくれる「音声装置付き電子翻訳機」を選びます。
ただ、それを作る技術力は正義青年にはまったくありません。
自分一人であれば10年以上かかるでしょう。仲間が必要です。
さて誰と組むか。
正義青年が会いに行ったのは、人間の声を合成で作るシステムの世界的権威、バークレー校の宇宙科学研究所のフォレスト・モーザ博士でした。
お金もない、コネもないあるのは熱意だけ、フォレスト・モーザ博士側に一緒に活動するメリットは全くありません。
ところが、正義青年はその熱意だけで博士の説得に成功。
アプロ宇宙船のプロジェクトに参加していた大学教授なども加わり、他の生徒も巻き込んだ1大プロジェクトチームを作り上げてしまいます。
正義青年には人を集める引力のようなものがありました。
そうしてできた「音声装置付き電子翻訳機」は、日本でシャープの佐々木正専務の目に留まり、売り込みに成功します。
その金額は、

なんと一億円で売れました。
50社以上(特にカシオには冷たくされた事は恨んでる)に行きましたが手ごたえはなく、やはり正義青年の熱意に光るものを見た、佐々木専務が受け入れてくれたいのです。
この佐々木正氏は孫さんの大恩人として、この後も目をかけてもらうことになります。
1979年、1億円の資金を元に米国でソフトウェア開発会社「Unison World」を設立。
日本でブームが終わったインベーダーゲームをアメリカで売り、アメリカにインベーダーゲームの一大ブームを起こし大きな利益を得ます。
こうして、20代で名乗りを上げることに成功した孫正義。
次なる一手は。

母や家族の待つ、日本に帰ることでした。
「せっかく成功したのにもったいない」
周りは止めましたが、母親との約束があると聞きいれません。

たかが何百億で約束を破ったら、僕はその程度の人間ということになる
大きな話に周りは驚きますが、これが正しかったことは、のちに証明されます。
1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。
孫正義はアメリカでの成功を捨て、日本で1から会社を興すことになりました。
こうして日本で創業した会社がソフトバンクです。
しかし、すんなりと事は進みませんでした、この後、孫正義は死にかけ、社長の座を失う危機に陥ることになります。
逆境を跳ね返す
ソフトバンクを興すまでのエピソードは以上です。
決して恵まれた状況/環境でなくても、それを跳ね返そうとするパワーは少年時代から現在に至るまで変わりませんね。
幼少時代の逆境を跳ね返すと言えば、SHOWROOM社長の前田裕二さんのエピソードも凄まじい物があります。こちらでまとめていますのでチェックしてみてください。