痛い目にあったのはいつも、「自分の判断が正しいと自信を持ってゲームに臨める時にしか相場に入らない」という原則を守ることができない時だった
アメリカの投機家リバモアは何度失敗しても不死鳥のように蘇る投資家として知られています。
また、その投資手法や哲学は100年ほどたった現在もマーケットに生きる人々に多大な影響を与えています。
そんな「ウォール街のグレートベア」の異名を持つ大投資家も最後は破産してピストル自殺を遂げます。
なぜ1億ドルの利益を上げたリバモアが破産してしまったのでしょうか?
悲しき生粋の投機家の人生を振り返ります。
無鉄砲な少年相場師(boy plunger)
貧しい移民の子として生まれたジェシー・リバモアは、母からもらった5ドルを手に家出同然でボストンを目指しました。
ボストンで株価ボードにチョークで株価を書くボードボーイのアルバイトをしながら株式市場について学びます。
15歳のとき市場外取引が行えるバケット・ショップで相場を始めると天才相場師の片鱗をみせます。トントン拍子に儲け続け、17歳になる時には1200ドルの資産が出来ていました。
通常顧客が負けて帰るバケット・ショップで連戦連勝を重ねたジェシーは「無鉄砲な少年相場師(boy plunger)」と呼ばれ活躍しましたが、やがてボストン中のバケットショップから出入り禁止になります。
そこで、さらなる大きな取引を求め1900年23歳の時にニューヨークに向かいました。
ニューヨークの洗礼
意気揚々とニューヨーク株式市場に臨んだリバモアだったが、バケット・ショップとかってが違い5万ドルを失い破産、500ドルの借金を背負うことになってしまいます。1度目の破産です。
誤った時にすべきことはただ1つ、改めることだ
トレーダーとしての準備が不足している事を痛感したリバモアは、一旦元のバケットショップの取引に戻ります。
再挑戦
セントルイスのバケット・ショップに行き、そこで再度才能を発揮、わずか2日で2800ドルを手にします。
500ドルの借金を返済し、再度ニューヨーク株式市場に臨みます。そこでじっくり経験と資産を積み上げ、28歳のときには10万ドルを溜めていました。
ユニオン・パシフィコ鉄道
1906年、予感めいたものがありリバモアはユニオン・パシフィコ鉄道会社に対して大量の売りのポジションをとっていました。
同年の4月18日早朝、2500マイル離れたサンフランシスコを大地震が襲い、甚大な被害が出ます。
最初市場は無関心を装い、特段の動きはありませんでしたが、リバモアは自分に有利に働くと考え、ユニオン・パシフィコ鉄道の元々大きな売りのポジションをなんと倍に増やしました。
しかし、市場は中々動きません。
リバモアに焦りが見え始めたころ、ついに市場の底が抜けます。
4月20日、株価は暴落、リバモアは全ポジションを買い戻し25万ドルの利益を得ました。
大金を手に入れたリバモアは資産家の仲間入りをします。
2度目の破産
大金持ちになったリバモアは、しばらく休養する予定でしたが、我慢ができなくなりすぐに市場に戻ります。
さらなる売りのポジションで勝負に挑みましたが失敗、いっきに破産してしまいます。
まあ、なんとかなるさ
リバモアはすぐに立ち直り、その後、数カ月の間に損失分を全て取り戻し、さらに利益を上げ資産は75万ドルまでになります。
再びリバモアは蘇りました。
1907年恐慌でのJPモルガンからの依頼
1907年、ニッカーボッカー信託会社の営業停止から始まった信用不安がニューヨークを襲っていました。
どの銀行も信託会社も現金を貸し出そうとしなってしまいました。貸付金利が急騰して仲介業者は資金を調達できなくなり、株価は1900年12月以来の最安値を更新していました。
そこで立ちあがったのがアメリカの5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者ジョン・モルガンでした。
ニッカーボッカー信託はもう無理だが、アメリカが一緒に沈没するわけにはいかない。
調査の結果、ニッカーボッカー信託はあきらめましたが、その他の銀行・信託会社の流動性を確保すべく預金を払い戻すための資金を供給させました。
一方、30歳のリバモアはパリで休養中でした。 ヨットで、釣りを楽しみ、釣った魚を調理し、相場の緊張からくるストレスを癒していました。
しかし、ニューヨーク株の崩壊を伝える新聞が目に入ると、彼は、快速船で故国に戻ります。
千載一遇のチャンスだ
直ぐに主要株を売り始め、売りのポジションをとります。
アメリカが怯えた1907年10月24日(木)の市場
市場が開始します。この日の株価も、売り気配で始まります。
12時。株を買う資金がなく、株を買う人も何処にもいません。
ウォール街から、資金が忽然と消えてしまったのです。
ニューヨーク証券取引所会長のランサム・トーマスはモルガンの事務所に駆け込み
証券取引所を早く閉めなければ大変なことになります!
バカ者!取引所をいつもより早く閉めたりしたら、市場はかえって大混乱に陥るぞ
モルガンは必死に止めました。
リバモアは、このチャンスを逃しませんでした。全資産で、怒涛の空売りを仕掛けました。
株価は暴落し続けます。株が下がると、彼の含みが増え、更なる空売りが可能になります。
ジェシー・リバモアは、勝利の美酒に酔いしれます。
彼の含み益は、100万ドルを超えていました。たった一日で、資産が200万ドルに倍増したのです。
彼は、攻めの手を緩める気は全くありませんでした。
買い手には資金がない。
明日もまだまだ売りだ、さらに儲けられる。
モルガンからの依頼
ジョン・モルガン主導の元、アメリカの危機を回避するため、大物が動きます。
アメリカ政府のコーテルユー長官は、新たに2500万ドルをニューヨークの複数の銀行に預け入れると発表しました。
また、ジョン・D・ロックフェラーは更に1000万ドルをスティルマンのナショナル・シティ銀行に預金しました。
ジョン・モルガンは有力銀行の頭取に次々と電話をかけます。
我々が、協力して資金を提供しないと、株式市場は崩壊する。準備金を吐き出すのだ!
銀行家達は、愛国心で団結します。
しかし、明日、株を買うものが果たしているかどうか?
株が上がらないと、銀行は不良債権を抱え込むことになってしまいます。
モルガンがこの戦いに勝つには、どうしてもあの男の協力が必要でした。
彼は、リバモアに使者を差し向け伝えます。
あなたが、明日も株を売れば、株価は暴落して巨額の利益を得られるでしょう。 しかし、リバモアさん、明日の売りを控えてもらえませんか。
そうすれば、あなたは、アメリカの株式市場を救うという、より次元の高い名声を得られます。
1907年10月25日(金)の朝
市場は、売り気配から始まります。
リバモアは、売りを控えるどころか、猛然と買い戻しに入りました。
しかし、売り方の勢いも盛んで、株価は一進一退を繰り返します。
リバモアの買戻しが終了。100万ドルの儲けが現金化されます。
さて、莫大な儲けを得たリバモアはどうするでしょうか?
彼は、ユニオンパシフィックなどの主力株に各10万株の買いをいれます。
逆に大量の買いのポジションをとったのです。
これには、売り方も浮き足立ちます。踏み上げで買い戻すしかありません。
相場は底を打ち、暴騰相場が始まります。 大きな流れが定まると、様子を見ていた個人投資家たちが、いっせいに買い始めます。いたるところ割安株だらけです。
ようやく流れが変わった。ジェシー・リバモアにも人の心があったのだな
銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝します。アメリカは、救われたのです。
しかし、彼は、愛国心から買いにまわる男ではありませんでした。
この日の朝、市場には、バネのような反発力がみなぎっていました。
記録的な売り残を抱えた状態は、危険そのものです。
彼は、銀行団が資金提供に合意したとの情報を得て、買いへの転向を決めたのです。
誰もが熱狂的に株を買っていた後場、リバモアは、今日買った株を密かに売り抜けていました。
2日で、資産は3倍の300万ドルに膨張していました。
綿花王(コットンキング)
300万ドルの資産を得たリバモアですが満足しません。
シカゴに渡り、商品取引に手を出します。
成功者が調子にのり、失敗すると思われましたが、ここでも才能を発揮し大成功。
200万ドル近くを儲けて、綿花王(コットンキング)と新しいニックネームを得ます。
このころ世界的な綿花の投機家テディー・プライスという男と親しくなります。
プライスの綿花の知識の豊富さにリバモアは魅了されます。
テディーの話から買いのポジションで取引を行います。
しかしそれが間違いでした。テディーは裏では売りに回っていたのです。
騙されたリバモアは無一文になってしまいます。
リバモアの名言にこんなものがあります。
相場で生計を立てたいなら、自分自身と自分の判断を信じなければだめだ。だから私は他人の情報を信用しない。もし誰かの情報で株を買ったのなら売る時にもその情報に従わねばならない。
今回、リバモアは打ちひしがれます、彼を打ちのめしたのは、自分の言葉(信念)を曲げてしまった事でした。
なんであんなことをしたのか、自分が信じられない
その後はスランプに陥り何をやってもうまくいかない時期が続き、ついに38歳の時に3度目の破産宣告をします。
もう誰もお金を貸してくれず、ダメかと思われましたが、ある証券ブローカーから「好きな銘柄を500株だけ購入していい」と言われます。
リバモアはわずか2日で3万8000ドルの儲けを出し、そこから第1次世界大戦前後の好景気にのり毎年300万の利益をだすようになります。
不死鳥リバモアは三度蘇ります。
1929年の「暗黒の木曜日」のリバモア
1920年代当時、アメリカはイギリスから世界最大の工業国の地位を奪い、アメリカ国民の多くは「永遠の繁栄」が約束されていると考えていました。人々の暮らしは飛躍的に豊かになっていきました。
1929年1月、株価高騰を背景に、フーヴァー大統領が施政方針演説の中で「アメリカは貧困を克服した」と自賛しました。
買いが買いを呼び、ニューヨークダウは1921年からの1929年の8年で5倍になっていました。
アメリカ中が好景気に酔いしれていました。
1913年に出来たFRBは投機を抑制するために、利上げをしましたが、すぐには効果は上がりませんでした。
この利上げにいち早く反応したのがリバモアでした。
当時の彼の資産は2000万ドル、5件の別荘を持ち、数々の投機に成功した実績から「ウォール街のキング」と呼ばれていました。
もうすぐだな
空前の株式ブームに浮かれて周りが見落としていた市場の警告サインを読み取り、その終焉が近いことを確信していました。
リバモアは、情報を重視しおり、各証券所に専用回線を敷き、担当者を張り付けていました。
また、パリやロンドンの相場も国際電話で知っていました。
1929年9月26日、イギリス中央銀行の金利が5.5%から6.5%に引き上げられ、アメリカの金利(6%)と逆転します。 アメリカに流入していたヨーロッパの資金が逆流して、ロンドンに逃げ出すはずです。
決定的なチャンス到来です。
自宅を抵当に入れて投資資金を作ると、銀行や鉄道、電力会社など100もの株に一斉にショートをかけました。
しかし、彼が、空売りしていることは、アメリカ中の投資家が知っていました。
大暴落初日となった1929年10月24日の暗黒の木曜日の朝、不安にかられた多くの投資家は、リバモアに「空売りを止めろ」との脅迫状を書いたそうです。
リバモアはどうするのか?
もう、人の言う事を聞いて取引はしない。
全力で売りだ!
リバモアは脅迫に屈せず、その後も信念に従い空売りの上乗せを続け、4億5000万ドルのショートポジションをとり、この相場で生涯最高1億ドルの利益をえます。
「ウォール街のグレートベア」としての存在を見せつけました。
この下落は、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がり、1930年代を通じて資本主義世界の何百万という人々から職を奪うことになります。
彼は利益の代償に、財産や仕事を失った多くの国民の恨みをかいました。
リバモアの最後
その後、リバモアは、どうなったのでしょうか?
リバモアは、投機の快楽に取り付かれた人間です。
普通これだけ成功すれが後はお遊び程度で大勝負はさけるでしょう。
しかし彼はどんなに成功しても大博打をやめられません。
1929年からの大暴落からの反発相場でも大勝負を仕掛けます。しかしポジションをあやまり、大損害を出してしまいます。
損害を積み重ね500万ドルの借金を背負い、4度目の破産。
その後、復活にかけますが、奇跡はおきませんでした。
1940年11月、「闘うことに疲れた」と走り書きしたメモを残し、63歳でピストル自殺を遂げます。
何度も復活を遂げた偉大な投資家も最後は36万ドルの借金があったと言われています。
「ギャンの価値ある28のルール」で知られているアメリカの大投資家ウィルアム・デルバート・ギャンはリバモアをこのように評しています。
リバモアの弱点は、金儲けの事しか学ばなかった事だ。彼は金を守るルールを学ばなかった
彼の投資にはゴールがありませんでした。たとえどんなに利益が出たしたとしても次の相場を見過ごす事はできない、悲しき生粋の投機家だったのです。
以上で、リバモアの物語はおしまいですが、現代にも十分な富を得ても全力で投資を続け、勝ち続けている投資家がいます。そちらもチェックしてみてください。
参考資料
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
◆書籍:
ビッグミステイク レジェンド投資家の大失敗に学ぶ
◆WEBサイト:
アメリカが怯えた日のジェシー・リバモア
Wikipedia:1907年恐慌
- 本カテゴリの記事は基本的に主人公寄りで書いています。
- 極力資料に基づき記載していますが、会話の内容など一部脚色しています。
(おしまい)