2002年に国の重要文化財に指定された「大阪市中央公会堂」というルネッサンス様式の美しい建物ものがあります。
入り口には、北浜の恩人と呼ばれる男の像が立っています。
この建物は「岩本栄之助」の寄付により作られました。
その金額は50億円超といわれています。
大阪では岩本栄之助の事を岩本さんと「さんづけ」で呼ぶそうです。
男気あふれ、地元で尊敬されていた岩本栄之助ですが、39歳の若さで自らの人生の幕を引くことになります。
相場の道は孤独なものや。一人で仕掛けて、一人で耐えて、最後の勝負を収めればそれでよいのや。 助言はいらん。
3分ほどのボリュームです。
義理人情に厚い相場師の悲劇のお話、お付き合いください。
戦後バブルの大勝負
1877年(明治10年)、岩本栄之助は、大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本 栄蔵の次男として大阪市南区に生まれる。
学校では、商業学と英語、フランス語、清語の3ヶ国語を学びます。1904年の日露戦争に出征し無事帰国。
1906年に兄の急死により、思わぬ形で家業の株式仲買商の後継ぎになります。
家業を継いですぐの1907年の正月、試練が訪れる。
当時、日露戦争後の好景気により株価はバブルと言われる水準まで上昇。
地元大阪の仲買人達は、バブルが弾けると見て、こぞって売り向う。
ところが、中々バブルが弾けず、窮地に陥ります。
このままでは、みんな破産です。
◆ この時の主な勢力図
<買い方>
鈴木久五郎(元祖成金)、松永安左エ門、平沼延次郎、太田収
<売り方>
野村徳七(野村財閥創設者)、福沢桃介(福澤諭吉の婿養子)
仲介人達は、大株主である栄之助に助けを求めました。
いいでしょう、皆さんには父の代から30年もお世話になっています。協力しましょう。
栄之助は仲買人たちの苦境を救うために「売り方」として参戦、全力で売りました。
そして1907年1月16日、「あかぢ銀行」が持ち株を全部売り出したのをきっかけに、大暴落が始まります。
栄之助達の大勝利でした。
一度下がり始めたら止まりません、結局この年は年初の775円から年末にはたったの92円、年間暴落率88%の大暴落となりました。
栄之助は相場で儲けたのはもちろん、地元の仲買人たちの信望も得るのでした。
戦後バブル再び
1909年に財界が結成した渡米実業団に加わり、アメリカ合衆国を視察、その視察中に父・栄蔵が病死したとの知らせを聞く。
供養も兼ねて、大阪市に100万円(今の貨幣価値で50億円超)を寄付。
その寄付で建てられたのが大阪中之島のシンボル中央公会堂です。
そんな中、地元の仲買人がまた岩本の義侠に頼らざるをえなくなる事件がおきます。
堂島米穀取引所が買い占め王・高倉藤平の手に落ちそうになったのです。
岩本は今回も快諾、100万円の定期預金証明書を鷲づかみにして市場にかけこみ、売って売って売りぬきました。
しかし、この時は戦いに敗れ岩本も大損します。ただ、それゆえに岩本株は益々上がりました。
第一次世界大戦末期の1916年、株式市場は暴騰を続けていました。
「遠方の戦争は買い」の格言通り、岩本も買いで参戦します。
終戦が近いとの予測が出始るころ、日露戦争後のバブル崩壊が岩本の頭をよぎります。
こんな相場が続くはずがない、やがて講和が結ばれ、株価は必ず暴落する。
売りに転じます。
しかし相場は崩れそうで崩れず、岩本は立ち直れないくらいの大損失を出してしまいます。
これまで岩本に世話になった仲買人たちは、「この名物男を殺したら北浜の恥になる」と岩本救済に乗り出す。
しかし、岩本は覚悟を決めます。
1916年 10月22日、岩本商店の全ての使用人と家族を京都の宇治へ松茸狩りに出した後、自宅の離れ屋敷に入り、無念のピストル自殺を図ります。
1918年に第一次世界大戦が終わり、翌年、パリ講和会議が開かれます。
その後景気は後退し、2年後の1920年 (大正9年)には戦後恐慌が起こり株は大暴落。
岩本の売りは少しだけ早かったのです。
岩本の死後も大阪市中央公会堂の工事は続けられ、1918年10月末に竣工。
「その秋をまたで散りゆく紅葉かな」
栄之助の辞世の句です。
(おしまい)