2004年の6月の近鉄買収宣言から立て続けに世間を騒がしてきたホリエモンですが、次はなんと総理大臣を目指します。
これまでプロ野球と放送事業への参入に挑戦したホリエモンは、「近鉄球団買収」も「ネットとテレビの融合」も結局、失敗してしまいました。
衆議院選挙への立候補を決意した際、周囲に漏らしています。
3連敗は許されない
- ホリエモンは3連敗してしまうのか?
- ホリエモンのその後の運命を決めた、たった一つの失敗とは?
排水の陣で挑むホリエモンの熱い選挙戦、ぜひ最後までお付き合いください。
出馬まで
2005年8月16日、衆議院の解散(いわゆる郵政解散)に伴う総選挙が決まりました。
この小泉首相の解散の様子を見たホリエモンはこれこそ真のリーダーの姿だと感銘をうけました。
選挙に出たい!
出て、小泉首相の改革を手伝いたい!そして後継者になる
CMの撮影中だったが、ライブドア広報幹部と話し合い、その場で出馬を決めてしまいました。
武部幹事長の次男が友達と言う事もあり、その線で自民党にアポイントメントをとり話はトントン拍子に進んだ。
小泉首相も「若い感覚をこれからの日本の経営に与えてくれるんじゃないか」とエールを送る。
ただ、野党の意見も聞いてみたいとのことで、面識のあった民主党の岡田克也代表(当時)とも会談を行うが、郵政民営化に反対の立場であることがわかり、民主党からの立候補は見送られた。
正式に自民党に「公認がほしい」と要請したが、党内部でもめているという。
そこで、当時小泉首相の秘書官をしていた飯島勲(いさお)氏と面会することになった。
面会場に到着すると武部幹事長は席を外し、宮内氏と2人取り残された。
いや!それはできませんよ!
何をわけのわからない事を言っているんですか?それに意味があるんですか?
辞めれないんだったら公認はやれない!
辞められるわけないじゃないですか!
最後は怒鳴り合いのようになっていた。
じゃあ当選したら公認をやろう
結局、無所属として出馬、自民とは側面支援ということで決着した。
ホリエモンは広島6区から出馬することとなりました。
元自民党の重鎮である亀井静香氏の地盤が余りにも強力で、自民党も対立候補を立てられないでいた選挙区だった。
公認はされいないが、次のような事実から自民党による亀井静香への対立候補として世間から認知されるようになりました。
- 立候補の記者会見を小泉首相との会談後、自民党本部で行った
- 広島6区で自民党・公明党が候補を擁立しなかった
- 武部勤自民党幹事長や竹中平蔵経済財政政策担当大臣など自民党大物幹部が堀江の応援演説に訪れた
亀井静香氏は、郵政民営化反対の急先鋒ある。自民党時代に閣僚を歴任した大物中の大物。
土建業界にどっぷりと世話になり、特定郵便局長に票と言う支援を受ける、この両者の利害は一致しており揺らがない。
「ここを倒して当選してこそ、政治家として活躍できる」
堀江氏は、ゆくゆくは総理大臣になると豪語していました、そのためにはただの当選ではなく実績を作る必要があると考えていました。
造反組の元自民党の重鎮(ヒール) VS ITベンチャー企業社長(ヒール)
地元は大盛り上がり。
この選挙区は、全国で最も注目をあつめる選挙区となりました。
想定外の解散
さて、そもそもホリエモンが立候補した選挙はなぜ行われることになったのでしょうか。
長年にわたって小泉首相が訴え続けてきたのが、国が運営する郵政事業を民間に移行する改革「郵政民営化」でした。
その改正法案は、衆議院はなんとか通過したが、参議院は否決が避けられそうもない情勢。
8月8日、郵政民営化法案が参議院委員で否決。
衆議院を解散します!
今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい。
解散だけはないだろうと踏んでいた周囲の予想をあっさり裏切り解散権を発動、選挙戦がスタートした。
郵政民営化に反対した亀井静香氏、野田聖子氏、平沼赳夫氏、綿貫民輔氏など37人の”造反議員”たちには総選挙での公認を与えず、それどころか”刺客”候補を立てた。
さらに、大ベテラン亀井静香氏の地元・広島には、IT旋風を巻き起こした堀江貴文ライブドア社長を自民党系無所属で擁立したのである。
ホリエモンの選挙戦
8月8日解散、8月30日公示、9月11日投票。
時期は真夏の1ヵ月、激動の選挙戦は始まりました。
胸に白字で「改革」と書かれた黒Tシャツの姿で気勢を上げた。
戦前の評価は、強固な基盤を持つ亀井静香が断然有利。ここでは古い体制を、ホリエモンが倒すというシナリオは望まれていない。
唯一の望みは、郵政民営化賛成に傾いている世論だけだ。
選挙区を丹念に回る姿は、行く先々で有権者に好印象を与えた。
「ちわっす」と気さくに手をさし出してきた。きちんと頭も下げていたし、まじめな感じだった。
「お高い感じはなかった」
触れ合った有権者は語っている。
対立候補の当事者であり「刺客」という言葉を最初に用いていた亀井静香は、堀江氏について
と批評した。こちらも役者である。
家賃300万円のホリエモンに庶民の気持ちはわからない
稼ぐが勝ちが心の荒廃を生むんじゃありませんか?
言葉巧みにホリエモンを批判した。
亀井静香の地盤での闘い
最初は亀井の地元と言う事もあって回れる場所がないほどだった。「あいさつさせてほしい」と電話をかけまくったが、断られ続けた。
亀井氏の地元の庄原市などに遊説にいっても、拒否されて駐車さえできない。
監視人がいて、演説を始めても寄って来る人がいない、閉鎖された社会を感じつけ入るスキはないように思えた。
ただ、ホリエモンの行く先々には、いつも人だかりができて、報道カメラも追いかけてくる。
やっと入った食堂で写真撮影と握手攻めにあっても堀江は必ず応じた。
1日に20、30ヶ所で街頭演説をこなす日程で、堀江の身体を心配する声がスタッフから挙がっている。
ホリエモンも「今日もきつかった」と漏らす事も多くなってくる。
それでも回り先を減らそうとしなかった。
「メディアが言うような話題作りのパフォーマンスとは到底思えない」
周りで見ていたスタッフは口をそろえる。
息子が友達だという縁もある自民党の大物・武部幹事長も応援に来てくれた。
幹事長には「簡単に言え、全て簡単に置き換えろ」と演説の指導まで受けるほどお世話になる。
大横綱の亀井静香先生に、平幕のホリエモンが買ったら面白いじゃないか。堀江君はどの候補者よりも可能性を持っている
そして堀江氏の手を取り、「堀江君を頼みます。我が弟です、息子です」と絶叫、大いに盛り上がった。
朝から晩まで選挙区をまわり、分刻みで演説を繰り返す。
合間で応援してくれる人と握手、サイン、写真。
これを来る日も来る日も繰り返した。
「人生の中であんなに一生懸命になれた時間はないね」後にこの時のスタッフと語らうことになる。
それくらいハードで充実感のある日々であった。
シャツを汗でドロドロにしながら、腕がちぎれそうになるほど手を振った。
流れが変わる
選挙ムードが高まって来ると当初は何度電話してもだめだったのに、今度は訪問依頼が殺到した。
スケジュールが組めないほどで、投票日までには100件以上にいった。中には亀井氏のポスターがずらりと並んでいる会社もあった。
ライブドアCFOの宮内氏は公明党へのアプローチを担当、公明党の条件は「比例は公明」を連行する事。
「節操がない」との批判があったのは事実だが、埋もれている公明党票を見逃すわけにはいかない。
『比例区は公明党に』と言わされ、しかも演説会の最前列では、ボランティアのおばちゃんたちが、ちゃんと僕がそれを言うかチェックしてる。『すげーな、この組織力』と思いました
後に堀江氏はこう語っている。
工作が実ったのは終盤、堀江氏が「比例は公明」と言うようになると取り巻く聴衆の反応がぜんぜん違う。手ごたえが感じられるようになってきた。
楽勝ではないが「勝てるんじゃないか」という期待感が膨らんでいった。
そして、運命の投票日。 投票率は、脅威の79.57% 。
結果は、、、、
亀井静香11万票に対して、ホリエモンは8万4千票。
落選である。
力及ばずに、どうもすみませんでした。そしてここまでありがとうございました
深々と頭をさげた。
「次の選挙があったら、広島6区に戻ってきたい」目を涙で潤ませながら次の選挙への意欲を見せた。
その日の夜の慰労会。
堀江さんは人目もはばからず、泣いていたそうです。
落選後も選挙事務所をそのまま残すなど、今後の衆院選で同じ広島6区から出馬する意向を示唆していました。
しかし、翌年の証券取引法違反事件で自身が東京地検に逮捕。
4年後の2009年8月の総選挙には出馬できませんでした。
ホリエモン節
2005年9月6日には、東京都内の日本外国特派員協会講演での発言が物議を醸した。
- 「憲法が天皇は日本の象徴であると言う所から始まるのは、はっきり言って物凄く違和感を覚える」
- 「歴代の首相、内閣、議会が変えようとしないのは多分、右翼の人達が怖いから」
- 「インターネットの普及で世の中の変化のスピードが速くなっているから、リーダーが強力な権力を持つ大統領制にした方が良い」
選挙特別番組では亀井静香が
自民党が天皇を否定するような人物を擁立すべきでない
と述べ、自民党幹事長代理の安倍晋三等に対し不満を漏らした。
運命の分かれ道、ホリエモンのたった一つの失敗
惜しくも落選してしまった、ホリエモンですが、選挙前から落選を予期していた人がいます。
票読みのプロと言われる小泉首相の秘書官・飯島薫氏です。
彼曰く、選挙前のある失敗さえなければ当選していたとの事。
そのホリエモンの運命を決めた、たった一つの失敗とは….
本気で当選したかったなら、社長を辞めて自民党の公認を得るべきだった。
そうすれば、小泉首相の応援演説も受けられ、当選していたというのです。
結果論ですが、自民党の議員になっていれば、その後の特捜検事によるホリエモン国策逮捕のシナリオも描かれなかったかもしれません。
今頃は閣僚になり総理大臣候補と呼ばれていたかも。
そうなってしまうと現在の起業家としてのホリエモンの活躍は見れなかった可能性が高く、どちらが良かったかは今となってはわかりません。
しかし、ホリエモンにとって大きな運命の分かれ道だった事は間違いありません。
最後に、祭りのあと
ホリエモンは落選してしまいましたが、自民党は296議席を獲得し歴史的圧勝を飾ります。
小泉首相の悲願であった郵政民営化に”有権者は賛成”という民意を示す結果となったのです。
国民新党から立候補しないか?
2010年の参議院選挙では衆議院選挙を戦った亀井静香より国民新党からの出馬を打診されたそうです。
郵政選挙では決着がついた後も
あれでは政治家として到底通用しません。本当に国民の生活を考えている政治家からは土の匂いがするものです。
ホリエモンからは都会慣れした金の匂いしかしません
と徹底的に批判していたのに、政治家って怖いですね。
さて、結局3連敗してしまいましたが、ホリエモンはただでは起きません、少し大人になり行動に変化がおきます。
- 経済界への参加
2015年12月、ライブドアは経団連への加盟を発表しており、それまで小ばかにしていた感のある体制側にすり寄る姿勢が見られます。 - 政界とのパイプ
武部幹事長とは本当に気が合ったようで、選挙後には対談までしてこのようなコメントをもらっています。
「堀江君は素晴らしい青年だと思うな。少年のように、無限にいろいろなものが広がっていく感じがある。僕ももっと若かったらなあとうらやましいぐらいです。」
その言葉が嘘ではなかったようです。2005年10月3日、武部幹事長より「党改革のアドバイザー」への就任を要請、ホリエモンも快諾しています。
このようにそれまではなかった政治との繋がりを持ち始めています。
そして、手元にはニッポン放送買収騒動でフジテレビから得た、十分な資金があります。
体制は整い、次の世間を騒がせる手を模索していました。
しかし、2006年1月あの事件が起きてしまい、そのすべては白紙となってしまうのです。
ホリエモン記事一覧
参考資料
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
検証「国策逮捕」 経済検察はなぜ、いかに堀江・村上を葬ったのか
- 本カテゴリの記事は基本的に主人公寄りで書いています。
- 極力資料に基づき記載していますが、会話の内容など一部脚色しています。
(おしまい)