みなさんホリエモンがどのようにしてライブドアの社長になったかご存知でしょうか。
この記事は、プロ野球界参入、ニッポン放送買収、衆議院選挙挑戦、ライブドア事件と世間を騒がせる事になる「ライブドア」が誕生するまでをまとめています。
絶対に恋人と一緒に会社を作ってはいけない
- ホリエモンの少年時代ってどんなだったんだろう
- 両親はどんな人
- 最初の彼女が大株主って本当なの
- 離婚歴ありって結婚してたの
- ライブドアってどうやってできたんだろう
そんな疑問が解決します。8分ほどの内容です、ぜひ最後までお付き合いください。
はじめに – ライブドア上場前夜
東京株式市場への上場を検討するある日、堀江青年は苦楽を共にし、一緒に会社を立ち上げたメンバーから罵倒されます。
「なぜこのままじゃいけないの?」
「お前は変わった」
「そんなにお金がほしいのか」
抗議の証として、フロアには叩き壊されたパソコンの破片が散乱しています。
このままでは、30人の社員のうち10人ほどが離脱してしまう。
「どうしてこうなった?」
堀江青年は過去に思いを巡らせます。
ホリエモンの幼少期
ホリエモン=堀江貴文さんは、1972年10月29日に福岡県八女市の普通のサラリーマン家庭に産まれます。
両親はお見合い結婚(父27歳、母20歳)であまり仲が良くなく、3人一緒に出かけた記憶は数えるほどでした。
父親も母親も感情を表にだすのが得意なタイプではなく、授業参観には仕事優先で一度も来たことがないなど、あまり可愛がられた記憶がありませんでした。
ホリエモンと父親
堀江さんのお父さんは日産ディーゼル福岡販売というトラック販売会社の佐賀支店で働いていました。
地元の高校を卒業後に新卒で入社し、早期退職でやめるまでこの会社に勤めます。
中学のころまで怒られると折檻をうけたり、ひどい時は木に縛り付けられて戸を閉められるなど、昭和の親父。
寡黙な父親で、余り両親から学ぶという事はなかったそうですが、唯一教えられた教訓があるそうです。
それは......
もちろん楽しい思い出もあり、年一回は海水浴に連れて行ってくれたり、たまに遊園地や神社に行ったりもしました。
ただ、その時も父親と二人で母親はついてこなかったそうですが…
堀江さんが上京することが決まったときにも「大学合格をほめる」とか「いなくなって寂しい」とかそんな事を言葉で表す人ではありませんでした。
ただ「お前が戻ってきたときは・・・」などと一人言のようにつぶやいていそうです。
ライブドア事件によりホリエモンが刑務所に行くことなった時にも「まあ頑張れ」というような内容の手紙が来ただけでした。
そんな親父さんも堀江さんが結婚して孫を連れていった時には、結構はしゃいでいたそうです。
孫はやはり別格なんですね。
ホリエモンと母親
父親同様口数が少ない人でしたが、何事も相談せずに物事を決めてしまう人で、口答えすると「せからしか!(うるさい)」と一蹴する激情型。
ある時、母親の命令に対して堀江少年が理路整然と反論すると「お前も殺して、私も死ぬ!」と台所から包丁を持ち出してきたそうです。
さすがに慌てた堀江少年でしたが、興奮が収まるのをただ待つしか手立てがありませんでした。
当時としては、めずらしく母親も働いており、堀江さんが2歳半になるまでは背負って畑でとれた野菜を売り歩き、その後自動車学校の事務で20年近く勤務。
仕事が楽しいと家で話すことはありませんでしたが、やりがいをもって真面目に働いていたようです。
ホリエモンが大人になり成功したある日、母親から電話がかかってきたそうです。
「車を買い替えようと思っているの」
「還暦だから赤がいい」
なんの話かわからず聞き返したら「もういいっ!」と怒って電話を切る。
どうやら還暦なので車を買って欲しいとの相談だったようです。
素直に「還暦祝いに車が欲しい」とは言えない母親なのでした。
最近、特に出所後はGLAYのコンサートを一緒に見に行き一緒に打ち上げに出たり、誕生日パーティーにサプライズゲストで登場、母からの手紙(恥ずかしくて非公開)を受け取るなど交流が増えてきたそうです。
「どこまでも激しく、どこまでも不器用な人」
ホリエモンは自身の母親をそう評しています。
ホリエモンの少年時代
堀江少年が幼稚園の頃、倉庫の窓から飛び降りた時に左腕を骨折してしまい、1ヵ月ほど幼稚園を休むことになりました。
家には高齢の祖母がいるだけ、暇だった堀江少年が目をつけたのが家にある唯一の本「百科事典」。
読めば読むほど世界が広がる感覚が心地よく、百科辞典にはまります。
宇宙・歴史から始まり、医学・自然科学・考古学など、どんどん読み進めていきます。
怪我が治ってからも読むことが日課となりました。
これが情報ジャンキー堀江貴文の起源です。
頭の良かった堀江少年は徐々に自分が周りとは違うことに気づきだします。
テストなど最初の10分で終わってしまい時間が余ってそれが苦痛でした、最終的には余った時間は他の人の採点を手伝っていたそうです。
周りとの違いにイラついたのかよく切れる問題児でした。
恩師との出会いがあり、小学3年で地元を飛び出して都会の塾に通うなど徐々に世界を広げていくことができました。
このころパソコンとも出会っています。プログラミングにはまり、塾のパソコンのバージョンアップ作業などのアルバイトをしたりします。
高校受験もたいして勉強しないで合格した堀江少年は徐々に堕落していきます。
パソコンも辞めて、ビリヤード・麻雀・ゲームセンターの日々、成績も徐々に下降して200人中180位くらいの最下位クラス。
しかし、勉強なんて半年もあれば皆に追いつけるとの計算がありました。
実際、東京大学を受験すると決めると、合否F判定(判定不能)から半年の勉強で見事合格、東京行きを決めるのでした。
東京の生活
東京では安い寮に入り、学校にも行かずに麻雀・酒盛り・競馬・塾講師のアルバイトで遊び金を稼ぐ、堕落した性格に逆戻りします。
特に競馬にはまってからは酷く、競馬で食べていけると勘違いし、誰にも会わずに競馬の予想をして1日が終わるようなこともありました。
世の中との繋がりがなくなり、麻雀やお酒を飲んでいた仲間とも会わずに疎遠になっていってしまいます。
パソコン関係のアルバイト
大学4年生の時、競馬の成績も思うように上がらない中、これではいけないと奮起します。
いったい何をすればいいのか?
両親を見ていてサラリーマンになる道は絶対に避けたかった、その前に単位を落としまくっていたため、就職するために卒業することが難しかった。
どこだったらこのダメ人間をうけいれてくれるだろう
とりあえず学生課のアルバイト募集の掲示板の前に行き悩みます、そこでパソコン関係のアルバイトを見つけます。
しかし時給が安い、塾講師の半分です。それでも自分の将来を見つけるため、そのアルバイトに決めます。
パソコン関係の会社「フィクス」でアルバイトを始めた堀江青年はすぐに仕事になれ、アルバイトの身ながら仕事を任されるようになり、様々な業務を経験します。
- プログラミング
- Macのサポート業務(メモリ増設・インストール)
- APPLEの宣伝イベントでの全国行脚
- MACを使ったフジテレビの番組のサポート
戦力となり、バイト先からいくらでも働いていいと言われ、どんどんのめりこんでいきます。
いつの間にか競馬もしたいと思わなくなっていました。
そして運命のインターネットと出会い、その世界に魅せられます。
インターネット黎明期(れいめいき)、WEBホームページなど日本に10サイトくらいしかなかった時代に、ホームページ作成やWEBサーバの構築を手掛け、そのノウハウを蓄積していきます。
これからはインターネットの時代だ
堀江青年は確信し、仕事に没頭していきます、どんどん仕事が舞い込み人手が全然たりません。
彼女と遊ぶ時間もなくなり疎遠となります。
そこで一石二鳥とパソコンが使える彼女をアルバイトに引き込みむことにします。
初めての彼女
堀江青年は女性にコンプレックスがありました。
福岡では男子校で誰ともつきあったことがなく、興味は人一倍あるが大学で話しかけられても戸惑ってうまく返事ができません。
東京に出たらすぐ彼女ができると思っていた堀江青年はかなり落ち込みました。
そんな堀江さんに初めての彼女ができます、塾講師のバイト仲間がダブルデートの相手として連れてきたのが縁で出会いました。
なんと相手は女子高生。
小柄で勝気な所がある彼女は、堀江青年の女性への苦手意識や「人の気持ちが分からない」性格がそれほど気にならないらしくて、マイペースで接してくれました。
堀江青年も彼女の前ではリラックスできました。
この最初の彼女 = 有馬あきこさん はその後、堀江さんの人生に大きくかかわってきます。
アルバイトで手ごたえを得た堀江青年は、大学を辞めてインターネット関連の会社「オン・ザ・エッヂ」を立ち上げます。
有馬さんは、その創業メンバーの3人の内の1人として名を連らねることになるのです。
さらに、 起業資金を彼女の父親から借金するのでした。
オン・ザ・エッヂ設立
資本金は600万ですべて彼女の父親からの借金、内訳は堀江が300万借り、彼女が200万借り、父親の投資が100万。
この投資分の100万は、上場時に数億円に化けることになります。
出資の条件の一つとして「大学はちゃんと卒業すること」という親心からの条件もありましたが、結局守ることはできませんでした。
会社名は、「オン・ザ・エッヂ」に決定、有限会社である。
オン・ザ・エッヂ の快進撃
- 堀江貴文社長
- 彼女の有馬あきこさん
- 寮の先輩である松尾さん(「フィクス」のバイトも手伝ってもらっていた)
WEB系の仕事を請け負う会社が少なかったこともあり、仕事はどんどん舞い込み、アルバイトを増やし事業を拡大していきます。
髪を切りに行く時間も惜しくて伸び放題のロンゲです。
しかしその努力のおかげで初年度から売上は数千万に及びます。
税理士は、インターネットで知り合った駆け出し税理士の宮内亮治氏が担当。
宮内氏が初めて会ったとき堀江青年はスーツにスニーカーという格好で、目を輝かせながら
ネットの世界でナンバー1になる
と話したそうです。そんな夢にみせられた宮内氏は会社が規模を拡大する中で社員となり、財務全般を取り仕切り、堀江青年の右腕となっていきます。
毎日のように会社に泊まり込みするなどガムシャラに働き、1年4か月後には株式会社化しました、役員は創業メンバーの3人。
どんどん仕事が舞い込む中で、有名アーティストのサイト制作や大手企業が関連する事業にも参加するようになっていきます。
- 人気絶頂の小室哲哉関連のサイトデザイン
- 年末イベントをWebで実施
- 浜田省吾やスピッツといったアーティストが所属する事務所のホームページ作り
しかし、会社が大きくなっていく中で、古参の社員とその他のメンバーの間であつれきを生むようになります。
他社から有能な人材を中途採用すると、会社としては新人なのですが、古参の社員と比べて社会的経験やノウハウは上です。
さらに、能力評価システムを採用していたことで給料の逆転も起きてきます。
そうすると古参のメンバーとしては「あいつは生意気だ」となるわけです。
古参メンバーで一番発言力があるのは、大株主でもある彼女の有馬さんです。
そして、このころには四六時中一緒にいる息苦しさから徐々に有馬さんと疎遠になっていました。
東証への上場をめざす
他と売り上げ規模は変わらないし、うちもできるのではないですか?
顧問弁護士から社員となった宮内亮治氏の勧めもあり、堀江青年は上場を目指すことを決断。
それに伴い、宮内氏がCFO(最高財務責任者)に就任、ファイナンス部門を引っ張っていく存在になります。
ITバブルも終わりが見えてきており、手続きを急ピッチで進める必要がありました。
さらに多忙を極めます。
しかし、古参メンバーは会社の規模を大きくする方向の上場に反対でした。
古参メンバーとのいざこざも増え疲弊していた堀江氏はいやしをもとめ、他の女の子に走ります。
飲み会でい知り合った女の子が仕事がないというので事務員として採用、いつしか恋人となりました。
付き合い始めて間もないある日、彼女から突然告げられます。
「子供ができたみたい」
堀江氏はこれがきっかけに結婚することになります。
やがてこのニュースは有馬さんの耳にも入ります。
恋愛とビジネスが絡み合い状況は最悪です。
「社長、有馬さんが大変なことになっている」
ある日、慌てふためいた社員に呼び出されて有馬さんの席に行ってみるとそこに彼女の姿はなく、割れたパソコンのディスプレイや飛び散ったガラス、ボコボコになったハードディスクが放置されていました。
ハードディスクには大事なクライアントの顧客データも入っていたのに。。。。
有馬さんはその勢いで会社を辞めます。それと前後して10人くらいの古参社員が辞めていきます。
30人程度の会社で10人、大打撃です。
堀江氏の頭に昔から苦楽を共にして気心のしれた古参メンバーの声がこだまします。
「ちゃんとクライアントを見て、きちんと仕事をしていくべきだ、会社が大きくなりすぎると、自分の目の届かない部分も多くなる」
「どうして無理して上場しなければいけないのか?」
「創業当時の社長が好きっだった、堀江社長は変わってしまった」
どこで間違ってしまったのか?堀江青年は悩みますが、ある時吹っ切れます。
悲しみを怒りに変えて、堀江青年は立ち直ります。
この事件を契機に堀江氏はドライな人間関係を好むようになります。
役に立つならつきあうし、立たなければあっさり切る、ビジネスに感情は持ち込まず、判断基準を数字に絞る。
経営者としての原点がこの事件にありました。
その後の有馬あきこさんですが、新たに会社を興すなど活躍していましたが、2016年堀江貴文氏の著書で急死したと伝えられています。
迫るITバブル崩壊
上場までは苦難の連続でした。当時、ITバブル崩壊が見えていたので手続きを急ぎます。
上場基準を早く満たすために決算時期を前倒しに変更したり、それに難色をしめした主幹事を野村証券から大和証券SMBC変更という荒技までやってのけます。
公開株価も中々きまりません。
エッヂ側の希望1株600万に対して、損をしたくない主幹事は300万を主張します。
結局、エッヂ側の希望1株600万で強引に押し切りました。
2000年4月東京証券取引所マザーズにようやく上場します。
無理をおして決めた公開価格、初値の公募価格われだけは避けたいところです。
上場初日、なんと下げ気配で値段がつきませんでした。
お祭りムードのハズがすっかり白けた雰囲気に。
翌日ようやく440万で初値がつきます。
26%の下落、実質ITバブルは崩壊していたのです。
その後、上場後初の決算は赤字に転落、こうなると社長の堀江青年は針のムシロ状態。
交際費は0円、上場会社の社長でリッチな筈が株も自由に売れず、辛い日々が続きます。
その後、2003年までエッヂの株価は公開株価を上回る事はありませんでした。
「なんとかしなければ」
ITバブルの崩壊により業績の回復が見込めない中、堀江社長は成長の為にM&A戦略で会社の規模を拡大する方針を決定。
上場で得た資金はまだ十分にあります。
バブル崩壊でIT企業の価値は下がっており、買収をするにはうってつけの状況でした。
ITバブル崩壊の試練
このITバブル崩壊は、ホリエモンだけでなく、時代の寵児ともてはやされていた多くのIT起業家達に大きな試練を与えています。
それはあのソフトバンクの孫正義やサーバーエージェントの藤田晋と言えども例外ではありませんでした。
特に藤田晋さんは、あの村上世彰さんの罠にはまり、会社を手放す寸前まで追い詰められます。
ホリエモンと秋元康
堀江と秋元氏はこの頃の出会っています。
当時、20代で数百億円という資産をもっていた堀江に対して激怒していたそうです。
こんな大したこともやってなくて、どうしてそんな金をもってるんだ!俺はこんな寝ないでゴリゴリやってるのに!
秋元氏からの発言を受けたホリエモンはというと
トップアイドルと結婚して、富と名声を手に入れた人が今更なにを求めているんだ?
と不思議がっていました。
その後の秋元さんはAKB48で再度世間から注目を集め、ホリエモンも及ばない資産を得ることになります。
ちなみにホリエモンというニックネームを世に広めたのは秋元康さんだそうです。
その秋元さんが「堀江以来の天才」と称した人物がいます。SHOWROOM社長の前田裕二さんです。彼の幼少期の物語は壮絶で、恵まれない環境から一流の人たちに「天才」と呼ばれるほど評価されるまでの熱い物語がみれます。
M&Aの攻防 vs イギリス通信大手企業
エッヂの最初の大型買収交渉は「PSI Net」の日本法人、日本で多くの会員を抱えるプロバイダーを持っていました。
この買収が成功すれば会社の売り上げは倍増、利益率も大きく改善、喉から手が出るほど欲しい案件です。
入札の競合は2社、この時点では名前は明かされません。
いざ、入札、買収に使える金額は25億。
事前の予想でも入札の見込みはぎりぎり。
結果、最終の2社のうち1つに決まります。
ここで相手が明かされます、イギリス通信大手「C&W(ケーブル&ワイヤレス」でした。
巨像にアリが挑む闘いとなりました。
資金的にはどう見ても不利です。
ただ、いくら資金があっても損をする投資はしない。
買収によるシナジー効果はオン・ザ・エッヂの方が上と見ていた、可能性はある!
それに大企業になれば図体がでかい分、何をするにもお金がかかり投資に賭けられる金額も限られてくる、その点ライブドアは身軽である。
冬のニューヨーク。ホテルのスイートルームで買収交渉が行われる。
ビットが始まる。
最初は小さい値幅での欧州。数時間経過なかなか勝負が決まらない、向こうも予算が限られている様子。
向こうにとっては数ある投資のひとつかもしれないが、エッヂにとっては社運をかけた一世一代の勝負である。
一気に200万ドルほどビット額を引き上げる。
向こう側がざわつく。「担当役員の決裁範囲を超えたらしい」
勝負の一撃が巨像の顔面を捉える。
流れはエッヂ側です。
相手は本社の役員会に確認が必要となり、交渉は翌日に持ち越し。
とはいえこちらも提示額ぎりぎり。
買収できる確率は高まったが、買えたら買えたで資金繰りが厳しくなるほど。
相手は赤字覚悟で積み増してくるのか。
引きさがるのか。
そして翌朝になり、再びオークションが始まる。
C&Wは、積み増してきた。
期待は打ち砕かれ、今度はエッヂが窮地に立たされることに。
こちらは後1億がやっとだが、相手は極東の20代社長の一介のベンチャー企業相手に負けるのが気に障ったのだろう、降りる気配はない。
プライドをかけた勝負となると資金力のない我々に勝ち目はない。。。
結果、エッヂの敗北。
初の海外遠征をしてのM&Aは失敗、しかしこの厳しい闘いでの経験値が後に数々の買収を成功させる原動力となりました。
- バリュークリックジャパン(後のライブドアマーケティング)
- クラサワコミュニケーソンズ(携帯電話販売会社)
- 日本グローバル証券(後のライブドア証券)
- ウェブキャッシング・ドットコム(消費者金融)
- ターボリナックス(ソフトウェア会社)
- 弥生(ソフトウェア会社)
ライブドア誕生
会社が大きくなり、事務所も六本木ヒルズに移転しました。
2004年2月、知名度がない事に悩んでいたことから社名をオン・ザ・エッヂからエッジ株式会社、そしてライブドアに変更。
ライブドアは2002年に買収した企業の名前です。
・倒産した企業の名前を使うなんて縁起悪い
・会社名に愛着ないのか?
などと言われたが、ライブドアは倒産前60億の広告費をかけていて知名度は抜群、それを活用しない手はない。
1億の買収で60億の広告費を得るのだから効果絶大です。
こうして、このあとプロ野球界参入、ニッポン放送買収、衆議院選挙挑戦、ライブドア事件と世間を騒がせる事になる「ライブドア」が誕生したのです。
チームライブドア
破天荒な経営スタイルで堀江氏のワンマン経営のイメージを持たれがちだが、決してそうではありません。率直に意見をぶつけ合う合議制をとっています。
それもひとえに「合理的であればすぐ納得してくれる」「けんか腰の言い争いをしても翌日にはけろっとして普通の関係に戻る」堀江氏のキャラクターのおかげである。
ある日、社内に堀江氏の怒号が飛び交った。
なんで分かってくれないんですか!
取締役の岡本文人と社内の人事制度について議論していました。
堀江は「能力がない社員は辞めればいい」との主張。
岡本は「社員が辞めていく会社はいい会社ではない。社員を育てる仕組みが必要だ」と反論。
堀江氏は声を荒げながら、人を育てる事がいかに非効率かの説明に言葉を尽くしたが、岡本は平然と「そんな話、私にはわかりませんね」と言ってのけた。
筆頭株主として株主総会で可決させちゃいますから
などと口走る事もあるが、そんな時は
そんなことここで言うべきじゃない。いい加減にしろ
と宮内氏が制するのでした。
この自由に意見をぶつけ合える体制が、会社の意思決定の速さにもつながっています。
主要メンバーは次のとおりです。
堀江貴文:社長
宮内亮治:CFO(最高財務責任者)
熊谷史人:27歳で取締役に就任。ライブドアの資本政策やニッポン放送買収に携わる
岡本文人:ライブドアマーケティング社長
中村長也:ライブドアファイナンス社長
乙部綾子:ライブドア広報担当
最後に、堀江氏の離婚
会社が大きくなるにつれ創業メンバーが会社を去っていくのは、よくある話のようでFACEBOOK社のマーク・ザッカーバーグの話は映画になっていますよね。
特に学生が企業するとこの傾向が顕著なようです。
さて、この記事中で結婚している堀江さんですが籍を入れて2年後にようやく結婚式を挙げたのですが、その3カ月後に離婚しています。
原因は堀江氏が仕事優先で多忙な事によるすれ違い、そして他に気になる女性ができたことによるものでした。
それ以来、お子さんには合わず、養育費を払い続けています。
子供には本当は会いたいが、お互いの為に合わないと決め、実践しているそうです。
ただ、本当はさびしがり屋と自分で言っている堀江さんですので、何十年後に「ホリエモン子供と感動の再会」とのニュースが出るような気がしています。
本記事は堀江貴文氏がホリエモンと呼ばれる前、ライブドアができるまでのお話です。
そしてこの年の6月、この無名の青年は時代のヒーローとなります。