本間宗久は江戸時代の米相場で名をあげた人です。
相場を動かすのは、旗(株価)でもなく、風(材料)でもなく、それを見ている人の心 。
「相場の神様」として有名で、今日の相場格言もほとんど宗久の言葉がもとになっていると言われています。
そんな宗久ですが、38歳になるまで家の事情で独立できず、自由に相場もできませんでした。
神様にも苦労があるんです。
宗久が苦労の末「相場の神様」と言われるようになるまでの物語、是非最後までお付き合いください。
「新潟屋」の五男の呪縛
1724年、本間宗久(そうきゅう)は出羽国(現在の山形県)の酒田の富豪「新潟屋」の五男として生まれます。
この時代は、父親であっても家長を主と仰ぎ、また長男(跡継ぎ)と次男以下では待遇がだいぶ違いました。
16歳のとき、宗久は父・久四郎に呼び出されます。
それは次のような内容でした。
- 病弱な長男(跡継ぎ)の代わりに兄の息子・光丘を家長候補として教育してほしい
- 光丘が家長となったあとも相談役として補佐してほしい
宗久が優秀であることを見抜いたが故の頼みでした。
宗久は数年前できた米の取引所を見て、密かに相場師になることにあこがれていましたが、家のために自分の心を押し殺して引き受けます。
当時の商売は競争が激しく、同じ店が30年続くことなどまれでした。
たしかに一家全員で店を守っていく必要があります。
その約束と引き換えに江戸に見分を広めにいく許可を得ました。
しかし、その江戸でも米相場に触れ、相場師になり大きなものを動かしたいという夢をますます大きくしてしまいます。
酒田に戻った宗久は、あらためて父に相場をはりたいと懇願します。
しかし取り付く島もなく「百戦百勝できる確信ができてからやれ」と諭されてしまいます。
教育係として世の中のしくみや商いについて英才教育をするなかで、長男の子供・光丘は、宗久にすっかりなついていました。
あるとき、
俺は相場師になりたい、お前が立派な人物になって、「お前の手なぞいらんわ、猫の手以下じゃ、くそくらえ」と言って追い出してくれ。
と冗談交じりにいいます。
まだまだ鼻が垂れるほど幼い子供に言う言葉ではありません。それほど一人で思い悩んでいました。
相場に挑む
時がたち、宗久33歳、父はとっくに亡くなっていましたが、言いつけを守り相場には手を出していませんでした。
その間、欠かさず相場の記録(初値、終値、最高値、最安値)をつけ、蝋燭の灯りの元、毎晩遅くまで研究していました。
光丘は、立派に成長していました、その才覚は宗久にもひけをとらない程です。
叔父様、しばし勉強に行ってまいります、父上を宜しくお願いします。
さらに見識をひろめるために1年前に奉公に出されていました。
光丘も育ち、店も順調だ、もう私が出て行ってもいいだろう 。
密かに、家をでて裸一貫から相場師として勝負する計画をたてます。
そんなとき、病弱ながら周囲も驚くくらい長生きしている長男・庄五郎に呼び出されました。
俺の病気も限界だ、明日からお前が店を継いでくれ、相場をするのも自由だ 。
と突然店を任されます、念願の相場も許されました。
宗久は、20年の研究の成果を試します。
当時、相場は読みがたいと決めてかかり、誰もこんな相場の研究はしていませんでした。
相場も商売も人と同じことをしないことに意味があると宗久は考えていました。
- 米相場の転換期は7、8月と12月、正月であることが多く、その時期を注視して張れば、1年中相場に張り付いている必要はない
- 秋米と豊年は売らないのを定石とする。
- 不作になりやすいのは、日蝕、月蝕のある年である。
七夕前後に雨が少ない年も不作になる - 一度決めたら、あとから行動や数字は変更しない(買い時、売り時、総予算)
- 手じまいをしたら、必ずしばらく休む
宗久の理論は、相場を支配します。連戦連勝、負けなしです。
潤沢な資金を元に商売も順調に広がり、4年間でその規模をなんと20倍にします!
光丘の反逆
すべてがうまくいっていたとき、突然、兄の庄五郎の容態が急変します。
光丘を家長にして支えてやってくれ、頼んだぞ 。
本当に頼んだぞ!
何度も何度も懇願しながら亡くなります。
庄五郎が死んだことにより、奉公先から光丘が後を継ぐために呼び戻されます。
急遽戻った光丘は、父親との別れもそこそこに店の帳簿を確認、店の実権を握る準備に入ります。
店の中では規模を20倍にした宗久の方が家長にふさわしいとの噂がたっています。
しばらくして、光丘は宗久を呼び出します。
帳簿を見ました。
あなたは店をつぶす気ですか。
いったい、何を言っている?
投機で資産を増やしてもしょうがない、商売とは人に引き継げる手法でやらなければ意味がない。
あなたがいなければ、相場で儲けることはできい、それでは全く意味がない。
私が築いた資産や広げた商売が意味がないというのか!
その通りです、店は元の規模に戻します。金はすべて酒田に防砂林を作る事業に寄付します。
そんなことが許されるか!
あなたには責任を取ってもらい、追放とします。
明日そのことを家族や店の者みんなに宣言します
冷静に考えれば確かに悪くない手です、酒田は昔から砂の害で苦しんでいます。
その防砂林事業を新潟屋が行えば、酒田に富がもたらされるだけでなく、一目置かれた新潟屋が盤石な地位を築くこともできる。
宗久は自分が育てた光丘の成長への嬉しさと、屈辱を受けた悔しさとが混ざり、複雑な気持ちで夜を過ごしました。
翌日、光岡は家族や店のみんなを集め、宗久が追放となることを告げます。
反対意見もでますが、強引に押さえつけ、つけ入るスキを与えません。
宗久も黙っています。
結局みんな家長の決断に従うことになりました。
最後に光丘は宗久に餞別の言葉をおくります。
お前の手なぞいらんわ、猫の手以下じゃ、くそくらえ!
家族や店のみんなはポカンとしています。
そうか!
10年以上前のあの時の私の話を覚えていてくれたのだな。
光丘は宗久がずっと家の呪縛から逃れ、外の世界に羽ばたきたがっていることをわかっていたのです。
そして圧倒的実績がある宗久がいなくなったあと、自分がうまく店をまわしていくために、宗久を追い出す形をとる他なかったのです。
宗久は、光丘に感謝し、酒田を後にするのでした。
38歳になり、ようやく自由を手に入れたのです。
非風非幡(ひふうひばん)
家の呪縛から解放された宗久は、一度行ってからあこがれていた場所・江戸に向かいます。
しかし酒田ではあれほどうまくいっていた相場が江戸では大失敗。破産するほどまでのどん底に陥ってしまいます。
失意の宗久は、曹洞宗海晏寺の和尚を訪ねました。
座禅を組み、「非風非幡」(ひふうひばん)の公案を課せられます
(悟りを開くための課題を解くこと)
「非風非幡」とは次のような話です。
二人の僧が旗(幡)の動くのを見て言い争いをしていました。
一人は「旗が動いている」と言い、もう一人は「いや風が動いているのだ」と言って、互いに譲りません。
その時、六祖が現れて、「旗が動いているのでもない、風がいているのでもない。あなたたちの心が動いているのだ。」と言い放ちました。
宗久は酒田で米相場を眺めていた日々を思い出します。
- 豊作の年は、コメの値段が下がる、でもなぜか最後はコメの値段が上がる。
- 凶作の年は、コメの値段が上がる、でもなぜか最後はコメの値段が下がる。
それは、なぜか?
- 豊作の年は人々は安心してコメを食べすぎ、最後は足りなくなってしまうから
- 凶作の年は節約して食べるため、最後は余ってしまうから
このとき、宗久は相場の極意を悟りました。
相場を動かすのは、旗(米の価格の動き)でもなく、風(天候や在庫量、米の作柄)でもなく、それを見ている人の心が動かしているのだと。
相場を読むことは人の心を読むことが重要だったのだ。
思えば江戸では、相場師になれた喜びから、人の心ではなく自分の心で相場を読んでしまっていたのだ。
出羽の天狗
悟りを開いた宗久は、江戸よりも取引が盛んだった大坂・堂島の米相場に挑みます。
ここでは江戸での失敗から学んだ宗久の才能が爆発、「出羽の天狗」と称されるほどの大活躍です。
さらに50歳を機に大失敗した因縁の地、江戸に移り住み再度投機し、今度は大成功。
巨万の富を築きます。
一方、酒田で家業をついだ光丘はどうなったのでしょうか。
光丘も宗久に劣らぬほど優れた才能を持ち、本間家の富をさらに巨大なものとしました。
その規模は、宗久から受け継いだ時の規模を超えていました。
そんな光丘の能力に目をつけた庄内藩主は藩の財政再建の全権を任せられ、見事に藩再建を成し遂げます。
江戸で大成功したころ、一時的に酒田に戻った宗久は、何十年ぶりに光丘に会います。
おかげさまで叔父様がでたあとに十分な実績を残せました、もう演技をする必要もありません。
公の場で和解することができたのです。
このあと、2人で協力して、諸藩に貸付を行うなどさらに本田家を栄えさせるのでした。
その活躍ぶりは「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と言われるほどでした。
最後に
第8代将軍徳川吉宗は財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍と呼ばれていましたが、米相場だけは操ることができませんでした。
密かに日々の取引の記録をとっていた帳簿が死後発見されます。
将軍の情報網と頭脳集団(家来)そして影響力をもってしても意のままにならなかった米相場。
連戦連勝で財をなした宗久の凄さが際立ちますね。
相場師は最後は身を崩すのが常ですが「相場の神様」と言われ続けて、その名声に傷をつけることなく、86歳で他界しています。
その生涯で相場から得た利益は、現在の貨幣価値で1兆円以上に相当すると言われています。
参考資料
本記事作成にあたり次のサイト・本を参考にさせていただきました。
日本相場師列伝―栄光と挫折を分けた大勝負 (日経ビジネス人文庫)
(おしまい)