日本で明治初期にバブルがあったのはご存じでしょうか。
通称:うさぎバブル、可愛い名前ですが、殺人事件を引き起こすやら、政府が介入して潰しにくるなど、(当然ですが)内容は可愛いものではありません。
現代の投資で失敗しないために、日本の過去のバブルからシミュレーションして回避策を探りましょう。
うさぎバブルはなぜ起こったのか
時代背景
18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国、イギリス、フランス、アメリカ合衆国などのが日本に開国を迫ったが、なんとか拒否し続けていました。
しかし、幕末~明治維新の時代になると、列強の圧力にまけて鎖国を解くことになります。
1854年3月31日には日米和親条約が締結され、ついに「開国」。
その後、日米修好通商条約(1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、「鎖国」は崩壊しました。
その結果、西洋からさまざまな珍品が輸入されるようになり、その中に、アナウサギ類に属するカイウサギも含まれていました。
うさぎ飼育ブーム
日本に古来より生息していたのはノウサギ類であり、アナウサギ類はいませんでした。
それまでノウサギしか知らなかった日本人にとって、さまざまな模様の毛皮を持つカイウサギは珍しくたちまち人気になります。
飼育のたやすく、食用にもできる、毛皮が服にもできることも広まった要因でした。
ペットとしてうさぎを飼う人が急激に増え、都市部では「兔市」が立つようになりました。
うさぎの売買や、毛並みの品評会が行われるようになったのです。
そのうち、めずらしい毛色のうさぎは高値で取引されるようになり、どんどん価格が上がっていきました。
こうなると飼育目的でなく転売目的で購入する投機家も現れ始め、さらに価格は上がっていきました。
高いものは1羽で米15トン(500円)の価値がつきました。
うさぎ投機の熱狂
当時の購入リストには、紙屋、屋根・畳屋、漬物屋や八百屋などの食品商、織・染・履物屋、道具屋などうさぎに全く関係のない業種の人もリストに上がっています。
貧乏人から大金持ちまで、身分を問わずにうさぎに熱を上げていました。
白いうさぎに人口の着色をして高値で売る詐欺も横行しました。
また、熱狂がピークに達すると様々なトラブルを起こすようになります。
- ある富豪はうさぎ売買で巨額の利益を得たが、うさぎの世話をしていた奉公人には分け前でもめて、奉公人が盗みを計画。しかし、見つかってしまい暴れたところを逮捕。
- 親子でうさぎの売買価格でもめている間にうさぎが急死。
息子大激怒で父親を突き飛ばす。転んだ父親は庭の大きな石に頭を打ち付け死亡。
このようにうさぎ売買の熱狂は社会問題化していました。
行き過ぎた熱狂に業を煮やした東京府は、1873年(明治6年)1月「兎会集会禁止条例」うさぎの集会を禁止する条例を制定、大人数でのうさぎの競売をやめさせようとします。
熱狂しすぎだ、頭を冷やせ。
ところが、熱狂した人々は隠れて実施するなど、熱狂が収まる気配はありませんでした。
いい加減にしろ!徹底的に取り締まるからな!
怒った東京都は、次なる手を打ち、それが決定打になります。
新たな条例「兎取締ノ儀」 によりバブルは一気に崩壊しました。
うさぎバブル崩壊の原因
1873年12月、本気になった東京都は、新たな条例「兎取締ノ儀」を制定し、うさぎ所有の届け出の義務化、1羽1円(米30キロ)飼育に対して税金がかかり、破ったものは1羽2円の罰金を課すことを決めました。
この条例により、ようやくうさぎの熱狂は収まり、バブルは一気にはじけました。
うさぎの価格は大暴落、誰も買い手が見つかりません。
崩壊の危機に気づかずにうさぎの売買を続けていた投機家は、破産するしかありませんでした。
うさぎバブルの崩壊で恨んだ人が神田東福田町に火を放ち、日本橋までの約5700戸に延焼する大火事となる事件まで起きてしまいました。
うさぎバブルと可愛い名前がついていますが、その結末はとても悲惨なものでした。
これだけ悲惨なバブルが起きても人類はバブルを繰り返します。
お次の舞台はアメリカ、あの有名な「靴磨きの少年」の逸話がうまれたバブルです。
うさぎバブルで失敗しないためにはどうすればよかったか
この時代に生きていたとして、どうすればうさぎバブルで失敗(破産)しなかったのでしょうか。
17世紀にオランダで発生した「最古のバブル:チューリップバブル」の時もそうでしたが、その国に新しいものが入ってくるとブームになり、結果バブルとなってしまうことがあるようです。
また、今だから、簡単に言えるのかもしれませんが、お上が潰しに入ったら最大の危険信号です。
手仕舞いしましょう。
次の記事では、8つのバブルから崩壊時に失敗しないための対策をまとめていますので、こちらもぜひ参考にしてください。